プヤ交流
No. 13
松本救出レッドカーペット大作戦
僕が目を覚ましたとき、何もなかった。
自分が何者なのか。どんな姿をしているのか。なぜここにいるのか。何ひとつ、わからなかった。
あてもなく彷徨ううちに、ここが「学校」と呼ばれる場所であること、簡単な会話を理解できる程度の知識は備わっていること、そして、僕の存在は人にも動物にも認識されないことがわかった。
孤独だった。
僕は、ずっと孤独だった。
どれほどの時間が過ぎたのか、もうわからなくなった頃。
彼女は現れた。
ふわふわとした、くせっ毛らしい髪。日焼けとは無縁そうな、白い肌。そして、ぱっつんに切り揃えられた前髪の下に、大きく、きらきらと輝く瞳。
その瞳と、目が合った。
気のせいかと思ったのも束の間、彼女はまっすぐ僕に向かって走ってきた。
突然のことに驚いた僕は、反射的に逃げ出した。
━━これが、彼女、小鳥遊杏との出会いだった。
「ねえ、ププは何かいい案ない?」
杏のきらきらとした瞳が、僕を見つめていた。
ププというのは、杏が僕につけてくれた名前だ。
「ごめん! 今って、なんの話だっけ?」
「もう! 松本を助けるために、レッドカーペットをどうするかって話でしょ!」
そうだった。今は松本━━旧校舎にいた、青年の姿をしたプヤ━━を助けるための話し合いの最中だった。
「でもさー、あいつ、本当に助けるの? なんか気分乗らなくない? ていうか、僕、鬼ごっこしたいし!」
杏の周りをぴょこぴょこと跳ね回りながら、不満を口にするのは快兎━━旧校舎にいた、小学校低学年くらいの姿をしたプヤ━━だ。
「ちょっと、快兎! 助けるって決めたんだから、助けるよ!」
杏は快兎をたしなめると、再び僕の方へと視線を向けた。
快兎の気持ちも、わからないではなかった。
というのも、僕たちが助けようとしている松本という男は、かなり訳ありなプヤなのだ。
松本はかつていじめの主犯格だった男で、一人の人間を自殺に追い込んでいる。
本人は反省していると言うが、とてもそうは思えない態度を取る。そんな男だった。
「私も正直、あんまり助けたいとは思わないわね」
そう口を開いたのは、杏の友人である結城涼だった。
本来、プヤは彼女には見えないはずだった。しかし、プヤの専門家を名乗る男から渡された眼鏡をかけることで、彼女にもプヤが見えるようになっている。
「まあでも、杏がやるって言うならやるわよ」
「ありがと! 涼!」
杏は満面の笑みを浮かべた。
その屈託のない笑顔を見ていると、不思議と心が和む。
もちろん、僕だって杏のためなら何だってしてあげたいと思っている。
けれど、そう簡単にはいかないのだ。
不思議なことに、僕は松本に対して、ひどく強い嫌悪感を覚えていた。それは、彼の態度が悪いからというだけでは、とても説明のつかないものだった。
それに、なぜだろう。松本とは今回初めて会ったはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がしてならなかった。
「ププ! とりあえず、レッドカーペットを探しにいきましょ! あなたも色々と思い出せるといいわね!」
「うん! ありがとう、杏!」
杏の言葉に、僕は素直に頷いた。
━━それから、一時間後。
「ぜんっぜん見つからないわね!」
杏がとうとう音を上げた。
「杏、まだ一時間しか探してないわよ」
涼が呆れたように言う。
「いいこと思いついた! 先生に聞こう!」
「だめよ」
「なんで?」
「聞いたところで、どうしてレッドカーペットが必要なのかって聞かれるでしょ? 事情を説明したって、先生たちが理解してくれるとは思えないわ。ましてや、貸してくれるなんてことはないでしょうね」
「そっかあ……」
杏はあからさまに肩を落とした。
「まあ、一番確実なのはネットショッピングで買うことでしょうけど……。これ、見て」
そう言って、涼はスマホの画面を僕たちに見せた。
そこには、こんな商品表示があった。
『レッドカーペット 2,500円』
「あれ? 思ったより安くない? これくらいなら全然買えるよ!」
杏がぱっと顔を明るくする。
「ちゃんと見て」
涼に促され、杏はもう一度画面を覗き込んだ。
そこには、小さな文字で『1mあたり』と書かれていた。
「あっ……」
杏の表情が固まる。
「松本がいる二階の教室から、ここの出口まで。いったい何メートル必要なのかしらね。とてもじゃないけど、アルバイトもしていない学生が出せる金額じゃないわ」
杏は、再び肩を落とした。
「私のお年玉貯金を全部使えば、なんとかなるかな……」
「そもそも、旧校舎の取り壊し工事が始まるのは明後日よ。今から注文しても、間に合うかどうか微妙なところね。それに、そこまでして松本を助けたいかしら?」
涼がもっともな疑問を口にする。
「そうねえ。でも、涼もよく知ってるでしょ? 私、一度やるって決めたことは曲げないの! 松本には、助けたあとでしっかり反省してもらって、きちんと罪を償ってもらうわ!」
杏は拳を握り、力強く宣言した。
「そう。それなら、なんとかしなくちゃね」
「うん! ププも力を貸して!」
「もちろんだよ!」
僕が答えると、杏は嬉しそうに笑った。
「あれ? そういえば、快兎は……」
「ねー! ねー! 面白いもの見つけた! ちょっとこれ見てよ!」
ちょうどそのとき、快兎がものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。手には、古びた教科書のようなものを抱えている。
「なになに? どうしたの?」
杏が尋ねると、快兎は待ってましたとばかりに教科書を開き、僕たちに見せた。
「これは……」
「ひどい……」
思わず、僕と涼が声を漏らした。
教科書のほとんどすべてのページが、落書きで埋め尽くされていた。
『ゴミ』『カス』『バカ』『消えろ』。
教科書の名前を書く欄には『クソムシ』と殴り書きしてあった。
そんな悪意に満ちた言葉が、何度も何度も書き殴られている。これでは、まともに教科書を読むことすらできない。
「こういう教科書がね、ほかにもいっぱい置いてあって! 落書きされた机とか、椅子とかもあったよ! なんか、いろいろ!」
快兎は興奮した様子で、身振り手振りを交えながら説明した。
「快兎、案内してくれる?」
杏が尋ねる。
「まかせてよー!」
快兎は元気よく返事をすると、僕たちを先導して歩き出した。
案内された教室に足を踏み入れた瞬間、僕たちは言葉を失った。
机は悪口で埋め尽くされ、椅子は脚を折られている。教科書やノートには、原形をとどめないほどの落書きが施されていた。
さらに気になるのは、床や机のあちこちに、赤黒い染みのようなものが残されていることだった。
いったい、ここで何があったのだろう。
そう考えた途端、頭の奥がずきりと痛んだ。
頭痛は次第にひどくなり、気分まで悪くなってくる。とてもではないが、この教室に留まっていられそうになかった。
「ごめん、杏。なんだか体調が悪くなっちゃったから、外に出てるね」
そう告げて、僕は逃げるように教室をあとにした。
「━━おまたせ、ププ」
しばらくして、杏たちが教室から出てきた。
その表情を見る限り、かなりショックを受けたようだった。
「いろいろ分かったよ。いじめられていた子の名前とか、どんなことをされていたのかとか……」
話しているうちに、杏の顔はどんどん曇っていく。
「わざわざ話さなくていいよ、杏。辛いでしょ」
僕がそう声をかけると、杏は小さく頷いた。
「まあ、ひどいもんだったわ。ただ、収穫もあったわね」
そう言った涼の手には、古びたアルバムが握られていた。
「これ、卒業アルバムなんだけど……ほら、ここ。文化祭の写真にレッドカーペットが写ってるのよ。おそらく、学校の備品として置いてあったんでしょうね」
「じゃあ、まだ学校に残ってるかもしれないってことだよね!」
杏の表情が、ぱっと明るくなった。
「そうね。ただ、どこに保管されているのかは分からないわ。新校舎の倉庫か、こっちの旧校舎の倉庫か……。もちろん、もう捨てられている可能性だってある。いや、古いものだし、そっちの可能性の方が高いかもしれないわね。それに、倉庫には鍵が……」
涼が説明を続けるなか、僕はひとり、アルバムに目を落としていた。
ずっと感じていた違和感。
この旧校舎に足を踏み入れたときから、何かが引っかかっていた。
僕は、ここを知っている。
アルバムに写っている風景にも、見覚えがある。
だけど、写真の中に、僕の知っている誰かがいない。
誰かとは、誰だ? なぜ僕はその人を知っている?
考えようとすると、頭の奥に何かが引っかかるような感覚がした。
「ププ! 快兎!」
杏の声に、僕ははっと顔を上げた。
「確かあなたたち、壁を通り抜けたりできたわよね?」
「できるよ!」
快兎が元気よく答える。
「じゃあ、二人で手分けして倉庫の中を見てきてほしいの。倉庫には鍵がかかっていて、私たちじゃ入れないから」
「おっけー!」
僕は努めて明るい声を出した。
頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。
ずっと胸のあたりが落ち着かない。
僕は、ここを知っている。
そう確信しているのに、何も思い出せない。
いったい、僕は何を忘れているのだろう。
けれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
僕の異変に杏が気づけば、きっと心配するだろう。せっかく松本を助けようと頑張っているのに、余計な心配をかけたくはなかった。
「まかせて! レッドカーペット、絶対に見つけるから!」
僕は笑顔を作り、杏に向かってウインクをした。
「うん! よろしくね、ププ!」
杏が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、僕は少しだけほっとした。
……大丈夫。バレてない。
僕は快兎のあとを追いかけた。
「━━あった!」
レッドカーペットは、旧校舎の倉庫で案外あっさりと見つかった。
これで、杏も喜んでくれるだろう。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「ねーププ。松本さ、本当に助ける気?」
不意に、快兎がそんなことを言い出した。
「どういうこと?」
「あいつ、全然反省してるように見えないじゃん。それなのに、助けてくれーってさ、バカみたいじゃない? あいつ、人を殺してるんだよ? そのまま消えちまえって思わない?」
快兎の声からは、いつもの無邪気さが消えていた。
「……何が言いたいの?」
「あー、もう! 勘が悪いなあ。レッドカーペットなんてなかったことにして、杏にはそう報告しようって言ってるの。そうすれば、杏だって諦めるしかないでしょ? ないものは仕方ないんだからさ。僕たちが責められることもないし、松本が消えるのだって仕方のないことになるじゃん?」
快兎は、まるで名案を思いついた子どものように笑った。
「……正直に言えば、快兎の言うことは、その通りだと思う」
「でしょー? だからさ、ね?」
快兎が期待するように、僕の顔を覗き込んでくる。
確かに、松本を助ける必要なんてないのかもしれない。
反省しているようには見えないし、僕自身、あいつのことがどうしようもなく嫌いだ。できることなら、顔も見たくないほどに。
だけど。
「だけど、ごめん。僕は杏を裏切れない」
そう答えると、快兎は一瞬だけ黙り込んだ。
「はー、そっかあ〜……」
やがて、呆れたように言った。
「分かったよ。バカ真面目だね、ププ」
「━━ただいま! 杏!」
「あっ、ププ! 快兎! おかえり! どう? レッドカーペットはあった?」
「あったよ! ちょっと薄汚れてて、赤というより茶色だったけど!」
「どっちの倉庫にあったの?」
涼が尋ねた。
「旧校舎の方だよ」
「……問題が発生してしまったわね」
「えっ? なに?」
涼の言葉に、杏が不思議そうな顔をする。
「もう使われていない旧校舎の倉庫の鍵を借りるのは難しいわ。先生たちを納得させられる理由が思いつかないもの」
「うーん……」
杏は困ったように唸った。
「そういえば、快兎。あなた、実体のあるノートを持てていたわよね? 新校舎から鍵を持ってくることはできないのかしら。あなたなら人間には見えないし、誰にも気づかれずに持ってこられるんじゃない?」
「それがねー! 無理なんだよねー!」
快兎は、悪びれる様子もなく答えた。
「少なくとも、僕が干渉できるのはこの旧校舎にあるものだけなんだ! たぶん、ププも松本も、新校舎にあるものには干渉できないと思うよ!」
「なるほど……。それはどういう理屈なのかしら?」
涼は納得したような、それでいてまだ腑に落ちていないような顔で尋ねた。
「んー! たぶんだけどね、この旧校舎って、まだ使えるのに使われなくなっちゃったでしょ? だから、使われなくなったことへの未練みたいなものが残ってて、半分、僕たちと同じような存在になってるんだよねー!」
「旧校舎そのものが、プヤに近い存在になっているということ?」
「そうそう! でも、まだ半分だから、普通の人間にも見えるし、触れるし、なんだってできるんだ!」
「……なんだって、というわけでもないでしょう?」
「えー? まあ、そうだけど!」
快兎は、あっけらかんと笑った。
涼は小さく息をつき、旧校舎の方へと視線を向けた。
「いいこと思いついた!」
突然、杏が目を輝かせた。
「倉庫の内側から鍵を開けてもらうっていうのは!?」
まさしく名案を思いついた、といった様子である。
「ダメね。旧校舎の倉庫の鍵は、つまみを回すタイプじゃなくて南京錠よ」
「あ、そうだった〜……」
杏は見るからに肩を落とした。
「まあ、ひとまず一つ案を思いついたわ。今日はもう暗くなるし、また明日の放課後、ここに集合しましょう」
涼がそう言ったとき、気がつけば空はすっかり薄暗くなっていた。
「━━というわけで、鍵を借りてきたわ」
翌日の放課後、そこには得意げな顔で鍵を持つ涼の姿があった。
「えー! すごい、涼! どうやったの!?」
「『旧校舎はもう取り壊されるのに、倉庫の中身がまだ片付いていなくて大変でしょう。よかったら手伝いますよ。倉庫の鍵を貸してください』と、そう言っただけよ」
「すごーい! 涼! 天才!」
「ただ、その代わり、本当に片付けをしないといけないわ。中のものを運び出さずに鍵だけ返したら、何をしていたんだって話になるでしょう?」
涼は鍵を掲げながら、念を押すように言った。
「だから、今日は倉庫の中身を運び出すのが中心よ。幸い、旧校舎にあるものなら快兎もププも手伝えるわ。ちゃっちゃと終わらせましょう」
「よーし! じゃあ、さっそく始めよう!」
杏の掛け声を合図に、僕たちは倉庫の片付けに取りかかる。
……その前に。
僕たちは倉庫の隅に置いてあったレッドカーペットを、旧校舎へと運び込むことにした。レッドカーペットは意外と大きく、片付けの邪魔になりそうだったため、先に運び出しておいた方が効率的だろうという判断だった。
薄汚れたカーペットは、持ち上げてみると思いのほか重かった。長い間、誰にも使われずに放置されていたせいか、ところどころに折り目がつき、端の方も傷んでいる。
それでも、広げてみれば十分に使えそうだった。
「これがレッドカーペット……」
杏がしげしげと眺める。
「結構長いわね」
涼はカーペットの端から端まで目を走らせ、それから満足そうに頷いた。
「これなら、長さも足りそうね」
「よかったー!」
杏がほっとしたように笑う。
僕も胸を撫で下ろした。
これで、松本を助けるための準備は整った。
「じゃあ、これをここに置いて、片付けを始めましょうか」
涼の言葉に、僕たちはカーペットを邪魔にならない場所へ移動させ、倉庫へと戻った。
古い机や椅子、使い道のわからない道具が詰め込まれた段ボール。中には、何に使うのか見当もつかないようなものまであった。
人間には触れられない僕たちも、旧校舎にあるものなら運ぶことができる。快兎と協力して次々に荷物を運び出していくと、思いのほか作業は早く進んだ。
「ふぅー! ちょっと休憩!」
快兎が突然、両手を上げた。
「僕、トイレ!」
「えっ、快兎ってトイレに行くの?」
杏がきょとんとした顔で尋ねる。
「行かないけど!」
「行かないんかい!」
杏のツッコミに、快兎はけらけらと笑った。
「じゃ、ちょっと行ってくるねー!」
そう言い残すと、快兎は軽い足取りで倉庫を出ていった。
「……何しに行ったのかしら」
涼が呆れたように呟く。
「さあ……?」
僕にもさっぱりわからなかった。
まあ、快兎のことだ。すぐに戻ってくるだろう。
僕たちは気を取り直して作業を再開した。
それからしばらくして、倉庫の中はすっかり空になった。
「やったー! 終わったー!」
杏が大きく伸びをする。
「ええ。これなら問題なさそうね」
涼は手元のメモを確認し、満足そうに頷いた。
「それじゃあ、最後にレッドカーペットを運びましょう。あれを松本の教室まで持っていけば、今日の作業はおしまいよ」
「うん!」
僕たちは倉庫を出て、カーペットを置いておいた場所へと向かった。
ところが。
「あれ……?」
カーペットを広げた杏が、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、杏?」
「えっと……これ、こんなに短かったっけ?」
その言葉に、僕もカーペットへと目を向けた。
確かに、何かがおかしい。
さっき広げたときには、十分な長さがあったはずだ。
けれど、今、目の前にあるカーペットは明らかに短くなっていた。
「……ちょっと待って。これじゃあ、松本の教室から出口まで届かないんじゃない?」
涼の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
「えっ!? うそ!?」
杏が慌ててカーペットの端を持ち直す。
僕も反対側へ回り、もう一度、長さを確かめた。
……足りない。
どう考えても、足りなかった。
そのとき、僕はカーペットの端に目を留めた。
最初に見たときは、古びて傷んでいるだけだと思っていた。けれど、今見ると、片端の形が明らかにおかしい。まっすぐな直線になるはずの切り口が、ところどころ波打ち、歪んでいる。繊維も乱れていて、鋭い刃物で一気に切ったというより、急いで無理やり切ったように見えた。
「……これ、切られたんじゃないか?」
僕が呟くと、杏と涼もカーペットの端を覗き込んだ。
「切られたって……誰に?」
杏が不安そうに尋ねる。
僕だって聞きたい。
さっきは、確かに足りていたのだ。
誰かが勝手に切ったとしか考えられない。
でも、一体誰が?
そう考えたところで、僕はふと、さっきの出来事を思い出した。
━━僕、トイレ!
快兎は、まだ戻ってきていなかった。
快兎は、ずっと松本を助けることに反対していた。
杏や涼は知らないだろうが、僕にはレッドカーペットをなかったことにしようと提案してきたくらいだ。快兎がこんな行動に出る可能性は、十分に予測できたはずだった。
「……僕、快兎を探してくる」
そう言って、僕は立ち上がった。
「うん……。お願い、ププ」
不安そうな杏に頷き、僕は快兎を探しに旧校舎へと行く。
どこにいるのか、見当はつかなかった。けれど、旧校舎のどこかにいることは間違いない。
しばらく探したそのとき、階段の踊り場から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「いやー、うまくいったなあ!」
……いた。
覗き込むと、快兎が壁にもたれかかり、ひとりで楽しそうに笑っていた。
「快兎」
「ん? あれ、ププじゃん! どしたの?」
「……カーペット、切ったでしょ?」
「あっ、バレた?」
快兎は、いたずらを見つかった子どものように舌を出した。
「どうして、あんなことしたの?」
「えー? だって、松本なんか助けたくないもん」
あまりにもあっさりとした答えだった。
「……そっか」
僕は小さく息を吐いた。
快兎の気持ちは、わからなくもなかった。
松本は人をひとり、自殺に追い込んでいる。本人は反省していると言うけれど、とてもそうは思えない。そんな相手を、わざわざ助けてやる必要があるのか。
僕だって、そう思うことがある。
むしろ、松本に対しては、快兎以上に強い嫌悪感を抱いているのかもしれない。
それでも、杏は助けると決めたのだ。
「でもさ、快兎。杏は本気なんだよ。松本を助けたあと、ちゃんと反省させて、罪を償わせるつもりなんだ」
「ふーん。でも、そんなの無理じゃない?」
快兎はつまらなそうに答えた。
「だって、あいつ全然反省してないじゃん。助けたって、どうせまた同じことするよ」
「……そうかもしれないね」
否定はできなかった。
「じゃあ、いいじゃん。このまま消えちゃえば」
快兎は、さも当然のことのように言った。
僕はしばらく黙っていた。
快兎の言うことにも、一理あると思ってしまう自分がいた。松本を助けたところで、本当に何かが変わるのだろうか。杏の願いどおり、あいつが自分の罪と向き合う日が来るのだろうか。
そんな保証はどこにもない。
けれど。
「……それでも、杏は助けたいんだよ」
「だから?」
快兎が首を傾げる。
「僕は、杏に協力するって決めたんだ。だから、もう一度考え直してくれないかな。カーペットを切ったこと、杏たちに謝ってとは言わない。ただ、せめて切った部分を返してくれないかな」
できるだけ穏やかに、そう伝えた。
快兎はしばらく僕の顔を見つめていたが、やがてぷいっとそっぽを向いた。
「やだよ。僕、あいつ嫌いだもん」
「……そっか」
もう一度説得してみようかとも思った。
けれど、快兎の様子を見る限り、これ以上何を言っても考えを変えることはなさそうだった。
無理に言い聞かせたところで、余計に意地を張らせるだけかもしれない。
「わかった。無理にとは言わないよ」
「えっ、もういいの?」
快兎が意外そうに振り返った。
「うん。でも、杏たちは困ってる。それだけは覚えておいてね」
そう告げて、僕は踵を返した。
快兎を責めることはできなかった。
松本を嫌う気持ちは、僕にもある。快兎だけに考えを改めろと言うのは、どこか違う気がした。
ただ、杏の願いを叶えたい。
今の僕にできるのは、それだけだった。
杏たちのもとへ戻ると、二人はまだカーペットの前で頭を悩ませていた。
「ププ! 快兎くん、見つかった?」
「うん。やっぱり、快兎が切ったみたい」
「そう……」
杏は悲しそうに目を伏せた。
「説得はしてみたんだけど、ダメだった。ごめん」
「ううん、ププのせいじゃないよ!」
杏は慌てて首を横に振った。
涼は小さくため息をつく。
「まったく……。困ったものね」
「……でも、まだ諦めたくない」
杏は顔を上げ、短くなったカーペットを見つめた。
「何か、ほかに方法があるはずだよ」
その言葉に、僕もカーペットへと目を向けた。
取り壊しは明日。
もう、ほとんど時間は残されていない。
やがて日が完全に落ち、あたりは真っ暗になった。
もう打つ手はない。誰もがそう思い始めた頃、杏がふと口を開いた。
「ねえ、カーペットって、全部繋がっていないとダメなのかな?」
「それって、どういうこと?」
涼が聞き返すと、杏は考えを整理するように言葉を続けた。
「松本が歩く場所にレッドカーペットが必要なのは分かった。でも、歩く場所って、どこからどこまでのことを指すんだろう? 道全体? それとも……」
「……なるほどね」
涼が何かに気づいたように顔を上げた。
「やってみる価値はあるかも。齋藤に聞いてみよう」
その言葉を聞いて、杏の表情にわずかな希望が戻った。
スマホのライトを頼りに、真っ暗な旧校舎の中を進んでいく。
階段を上り、松本と齋藤がいる教室にたどり着いた。
教室の中では、齋藤が相変わらず松本の魂を抜こうとしていた。松本は白目を剥き、今にも気絶しそうな様子である。
「齋藤さん、こんばんは。……いつまでそうしてるんですか?」
杏が声をかけると、齋藤は手を止めずに答えた。
「あー、だってこいつ、こうしてないとすぐ暴れるし、暴言も止まらねえんだよ。それで、何の用?」
「ちょっと聞きたいことがあって……」
「ああん? ……あー、はいはい。レッドカーペットのことね。なるほどねえ」
齋藤はようやく手を止め、こちらを振り返った。
「へえ、面白いこと考えるじゃん。やってみる価値はあるかもよ」
その言葉を聞いた瞬間、杏の顔がぱっと明るくなった。
「よし! じゃあ、早速準備に取りかかろう!」
「齋藤さん! 準備できました!」
杏の声が、暗い旧校舎に響いた。
「よし。じゃあ、松本を元に戻すぞ」
齋藤が手を動かすと、白目を剥いていた松本の目に、みるみる生気が戻っていった。
「おい! お前ら、何してんだよ! ふざけやがって!」
松本は怒鳴りながら、周囲を睨みつけた。
「それで、俺を助ける手筈は整ったのか?」
その横柄な口ぶりに、思わず嫌悪感が込み上げる。
けれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「助かるよ、松本。そして、これから罪を償おう」
「はいはい、分かった分かった! いいから、さっさとしろ!」
松本は苛立たしげに言い捨てると、教室のドアを開けた。
「……なんだ、これ?」
ドアの向こうに広がっていた光景を見て、松本が怪訝そうに眉をひそめる。
床には、レッドカーペットが何本も並べられていた。
一本一本は短く、互いに繋がってはいない。まるで横断歩道の白線のように、一定の間隔を空けて敷かれている。
「レッドカーペットの上だけを歩くんだからね! 絶対にはみ出しちゃダメだよ!」
杏が念を押す。
松本は足元を見下ろし、納得がいかないとでも言いたげに顔をしかめた。
「よし! よし! あと少しだよ!」
あれから三十分。松本は、ようやく旧校舎の出口までたどり着いていた。
ヤンキーのくせに、いや、だからなのかは知らないが、松本は妙にバランス感覚が悪かった。何度も足を踏み外しかけ、そのたびに立ち止まっては体勢を立て直す。おかげで、ここまで来るのにずいぶんと時間がかかってしまった。
それでも、あと少しだ。
出口の向こうには、もう外の景色が見えている。松本が最後の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「そーーーれい! どーーーん!」
突然、小学生くらいの影が横から飛び出し、松本に勢いよく体当たりした。
「うおっ!?」
バランスを崩した松本の足が、レッドカーペットからはみ出す。
次の瞬間、松本の姿がふっと消えた。
「快兎!?」
誰かが叫ぶのとほぼ同時に、二階から怒声が響き渡った。
「このクソガキがぁーーー!!!」
「へへっ! じゃあね!」
快兎は得意げに笑うと、追いかけられる前にさっさとその場を離れていった。
「あっ! 待て!」
けれど、もう遅い。
快兎の姿は、あっという間に暗闇の中へ消えてしまった。
「今のって……!」
杏が驚いたように声を上げる。
「うん、快兎だよ」
僕は短く答えた。
「まさか、こんな邪魔のされ方をするなんてね」
涼が呆れたようにため息をつく。
「振り出しに戻る、か……」
杏は肩を落とした。せっかくここまで来たというのに、また最初からやり直しだ。
「でも、この調子だと何度でも邪魔してきそうね」
「うん。日が昇るまでになんとか松本を外に出さないと」
取り壊しが始まるのは明日だ。時間は限られている。快兎が何度も妨害してくるとなれば、悠長に構えているわけにもいかなかった。
すると、涼が杏に向き直った。
「杏。親に連絡しましょう。お互いの家に泊まるってことにして、今日は帰らないわよ」
「よしきた! やっちゃうよー!」
杏はすぐさま顔を上げ、いつもの調子で拳を握った。
あれから、どれだけの時間が経っただろうか。
僕たちは、いまだに快兎の妨害を阻止できずにいた。
快兎のやり方は単純だ。松本に体当たりをして、レッドカーペットの外へ押し出す。それだけである。
しかし、いつ飛び出してくるのか分からないうえ、小柄で小回りの利く身体と、まさしく風のようなスピードを持つ快兎を捕まえるのは困難だった。
気づけば、すでに東の空が白み始めていた。辺りもずいぶんと見やすくなっている。
チャンスは、もう一度きりといったところだろうか。
「クソガキ……ふざけやがって。絶対、後で痛い目に遭わせてやる」
松本は快兎への恨み言をぶつぶつと呟きながら、レッドカーペットの上をふらふらと歩いていた。
今のところ、妨害はない。
そのまま順調に進み、出口まであと十メートルというところまで来た。
そろそろ来る。
これまでの傾向から、僕はそう思った。
「そーーーれい! どーーーん! って!」
予想どおり、快兎が飛び出してきた。
「させるか!」
僕はとっさに、松本と快兎の間に身体を滑り込ませた。
「ププ、邪魔ーーー!」
次の瞬間、僕の身体はあっけなく吹き飛ばされた。背中から壁にぶつかり、頭に鈍い衝撃が走る。
松本は……あと五メートルくらいだろうか。
「うっ……」
突然、頭に激しい痛みが走った。
「ああ……ああ……」
何だ、これ。
頭が割れそうだ。
「ププ、ごめん。大丈夫? でも、邪魔するのが悪いよ」
快兎の声が聞こえた。
けれど、もはやそんなことはどうでもよかった。
松本はその隙になんとか出口までたどり着いたらしい。
「ププー! 快兎ー! 取り壊し用の重機がもう外に来てる! 早く出てこないと巻き込まれちゃう!」
杏の叫び声が響いた。
僕と快兎は、慌てて旧校舎の外へと飛び出した。
そして、次の瞬間。
轟音とともに、校舎が崩れ始めた。
壁が砕け、屋根が落ち、建物全体が土煙の向こうへと沈んでいく。
「うわー、俺の住処が……」
齋藤が崩れていく旧校舎を見つめ、泣いていた。
「危なかったー! ププ、快兎、大丈夫?」
杏が駆け寄ってくる。
「うん、大丈夫」
「大丈夫だよーー!」
快兎も元気よく返事をした。
僕は二人に背を向け、松本のもとへといった。
「しかし、なんとか成功してよかったよー! これで松本も罪を償えるね!」
杏がほっとしたように言う。
しかし、相変わらず松本は反省した様子はない。僕に向かって吐いたのは感謝の言葉でも、反省の言葉でもなかった。
松本は僕を睨みつけ、ガンを飛ばしてきた。
「お前よー、ギリギリじゃねえか! もっとなんとかできただろ! ふざけやがって、あと少しで死ぬとこだったんだぞ? ああ? なんだよ、その顔は?」
僕は黙って松本を見つめた。
こいつは、やっぱり反省なんかしないんだ。償う気だってきっと無い。
「松本。僕を覚えているか?」
「ああ? てめえ、ププだろ?」
「違うよ。まあ、こんな姿じゃ分からないだろうけどさ。『クソムシ』って言ったら理解できる?」
「は?」
「松本。お前がいじめていた『クソムシ』だよ」
「は?」
松本が間の抜けた声を漏らす。
後ろの方で、杏も驚いたように息を呑んだ。
「……ププ?」
松本の表情が、みるみるうちに変わっていった。
僕は杏と涼、快兎、そして齋藤の方へと振り返った。
「ごめん、杏、涼。そして……ありがとう、快兎」
「え?」
杏が不思議そうに声を漏らす。
「快兎のおかげで、全部思い出せたよ」
僕は再び松本に目を向けた。
全部、思い出したんだ。
忘れていた過去も。あの日、僕に何があったのかも。
そして、目の前にいる男が何をしたのかも。
「松本、地獄に落ちろ」
「そいつだ! 今、気づいた! そいつだよ! 旧校舎の悪いプヤ!!!」
齋藤が叫んだ。
「償いは地獄でしたらいい」
杏が何かを言おうとした。
けれど、その声が音になるよりも早く、僕は口を開いた。
「杏とはいえ、止めるなら容赦しないよ」
僕は微笑んだ。
僕が目を覚ましたとき、何もなかった。
自分が何者なのか。どんな姿をしているのか。なぜここにいるのか。何ひとつ、わからなかった。
あてもなく彷徨ううちに、ここが「学校」と呼ばれる場所であること、簡単な会話を理解できる程度の知識は備わっていること、そして、僕の存在は人にも動物にも認識されないことがわかった。
孤独だった。
僕は、ずっと孤独だった。
どれほどの時間が過ぎたのか、もうわからなくなった頃。
彼女は現れた。
ふわふわとした、くせっ毛らしい髪。日焼けとは無縁そうな、白い肌。そして、ぱっつんに切り揃えられた前髪の下に、大きく、きらきらと輝く瞳。
その瞳と、目が合った。
気のせいかと思ったのも束の間、彼女はまっすぐ僕に向かって走ってきた。
突然のことに驚いた僕は、反射的に逃げ出した。
━━これが、彼女、小鳥遊杏との出会いだった。
「ねえ、ププは何かいい案ない?」
杏のきらきらとした瞳が、僕を見つめていた。
ププというのは、杏が僕につけてくれた名前だ。
「ごめん! 今って、なんの話だっけ?」
「もう! 松本を助けるために、レッドカーペットをどうするかって話でしょ!」
そうだった。今は松本━━旧校舎にいた、青年の姿をしたプヤ━━を助けるための話し合いの最中だった。
「でもさー、あいつ、本当に助けるの? なんか気分乗らなくない? ていうか、僕、鬼ごっこしたいし!」
杏の周りをぴょこぴょこと跳ね回りながら、不満を口にするのは快兎━━旧校舎にいた、小学校低学年くらいの姿をしたプヤ━━だ。
「ちょっと、快兎! 助けるって決めたんだから、助けるよ!」
杏は快兎をたしなめると、再び僕の方へと視線を向けた。
快兎の気持ちも、わからないではなかった。
というのも、僕たちが助けようとしている松本という男は、かなり訳ありなプヤなのだ。
松本はかつていじめの主犯格だった男で、一人の人間を自殺に追い込んでいる。
本人は反省していると言うが、とてもそうは思えない態度を取る。そんな男だった。
「私も正直、あんまり助けたいとは思わないわね」
そう口を開いたのは、杏の友人である結城涼だった。
本来、プヤは彼女には見えないはずだった。しかし、プヤの専門家を名乗る男から渡された眼鏡をかけることで、彼女にもプヤが見えるようになっている。
「まあでも、杏がやるって言うならやるわよ」
「ありがと! 涼!」
杏は満面の笑みを浮かべた。
その屈託のない笑顔を見ていると、不思議と心が和む。
もちろん、僕だって杏のためなら何だってしてあげたいと思っている。
けれど、そう簡単にはいかないのだ。
不思議なことに、僕は松本に対して、ひどく強い嫌悪感を覚えていた。それは、彼の態度が悪いからというだけでは、とても説明のつかないものだった。
それに、なぜだろう。松本とは今回初めて会ったはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がしてならなかった。
「ププ! とりあえず、レッドカーペットを探しにいきましょ! あなたも色々と思い出せるといいわね!」
「うん! ありがとう、杏!」
杏の言葉に、僕は素直に頷いた。
━━それから、一時間後。
「ぜんっぜん見つからないわね!」
杏がとうとう音を上げた。
「杏、まだ一時間しか探してないわよ」
涼が呆れたように言う。
「いいこと思いついた! 先生に聞こう!」
「だめよ」
「なんで?」
「聞いたところで、どうしてレッドカーペットが必要なのかって聞かれるでしょ? 事情を説明したって、先生たちが理解してくれるとは思えないわ。ましてや、貸してくれるなんてことはないでしょうね」
「そっかあ……」
杏はあからさまに肩を落とした。
「まあ、一番確実なのはネットショッピングで買うことでしょうけど……。これ、見て」
そう言って、涼はスマホの画面を僕たちに見せた。
そこには、こんな商品表示があった。
『レッドカーペット 2,500円』
「あれ? 思ったより安くない? これくらいなら全然買えるよ!」
杏がぱっと顔を明るくする。
「ちゃんと見て」
涼に促され、杏はもう一度画面を覗き込んだ。
そこには、小さな文字で『1mあたり』と書かれていた。
「あっ……」
杏の表情が固まる。
「松本がいる二階の教室から、ここの出口まで。いったい何メートル必要なのかしらね。とてもじゃないけど、アルバイトもしていない学生が出せる金額じゃないわ」
杏は、再び肩を落とした。
「私のお年玉貯金を全部使えば、なんとかなるかな……」
「そもそも、旧校舎の取り壊し工事が始まるのは明後日よ。今から注文しても、間に合うかどうか微妙なところね。それに、そこまでして松本を助けたいかしら?」
涼がもっともな疑問を口にする。
「そうねえ。でも、涼もよく知ってるでしょ? 私、一度やるって決めたことは曲げないの! 松本には、助けたあとでしっかり反省してもらって、きちんと罪を償ってもらうわ!」
杏は拳を握り、力強く宣言した。
「そう。それなら、なんとかしなくちゃね」
「うん! ププも力を貸して!」
「もちろんだよ!」
僕が答えると、杏は嬉しそうに笑った。
「あれ? そういえば、快兎は……」
「ねー! ねー! 面白いもの見つけた! ちょっとこれ見てよ!」
ちょうどそのとき、快兎がものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。手には、古びた教科書のようなものを抱えている。
「なになに? どうしたの?」
杏が尋ねると、快兎は待ってましたとばかりに教科書を開き、僕たちに見せた。
「これは……」
「ひどい……」
思わず、僕と涼が声を漏らした。
教科書のほとんどすべてのページが、落書きで埋め尽くされていた。
『ゴミ』『カス』『バカ』『消えろ』。
教科書の名前を書く欄には『クソムシ』と殴り書きしてあった。
そんな悪意に満ちた言葉が、何度も何度も書き殴られている。これでは、まともに教科書を読むことすらできない。
「こういう教科書がね、ほかにもいっぱい置いてあって! 落書きされた机とか、椅子とかもあったよ! なんか、いろいろ!」
快兎は興奮した様子で、身振り手振りを交えながら説明した。
「快兎、案内してくれる?」
杏が尋ねる。
「まかせてよー!」
快兎は元気よく返事をすると、僕たちを先導して歩き出した。
案内された教室に足を踏み入れた瞬間、僕たちは言葉を失った。
机は悪口で埋め尽くされ、椅子は脚を折られている。教科書やノートには、原形をとどめないほどの落書きが施されていた。
さらに気になるのは、床や机のあちこちに、赤黒い染みのようなものが残されていることだった。
いったい、ここで何があったのだろう。
そう考えた途端、頭の奥がずきりと痛んだ。
頭痛は次第にひどくなり、気分まで悪くなってくる。とてもではないが、この教室に留まっていられそうになかった。
「ごめん、杏。なんだか体調が悪くなっちゃったから、外に出てるね」
そう告げて、僕は逃げるように教室をあとにした。
「━━おまたせ、ププ」
しばらくして、杏たちが教室から出てきた。
その表情を見る限り、かなりショックを受けたようだった。
「いろいろ分かったよ。いじめられていた子の名前とか、どんなことをされていたのかとか……」
話しているうちに、杏の顔はどんどん曇っていく。
「わざわざ話さなくていいよ、杏。辛いでしょ」
僕がそう声をかけると、杏は小さく頷いた。
「まあ、ひどいもんだったわ。ただ、収穫もあったわね」
そう言った涼の手には、古びたアルバムが握られていた。
「これ、卒業アルバムなんだけど……ほら、ここ。文化祭の写真にレッドカーペットが写ってるのよ。おそらく、学校の備品として置いてあったんでしょうね」
「じゃあ、まだ学校に残ってるかもしれないってことだよね!」
杏の表情が、ぱっと明るくなった。
「そうね。ただ、どこに保管されているのかは分からないわ。新校舎の倉庫か、こっちの旧校舎の倉庫か……。もちろん、もう捨てられている可能性だってある。いや、古いものだし、そっちの可能性の方が高いかもしれないわね。それに、倉庫には鍵が……」
涼が説明を続けるなか、僕はひとり、アルバムに目を落としていた。
ずっと感じていた違和感。
この旧校舎に足を踏み入れたときから、何かが引っかかっていた。
僕は、ここを知っている。
アルバムに写っている風景にも、見覚えがある。
だけど、写真の中に、僕の知っている誰かがいない。
誰かとは、誰だ? なぜ僕はその人を知っている?
考えようとすると、頭の奥に何かが引っかかるような感覚がした。
「ププ! 快兎!」
杏の声に、僕ははっと顔を上げた。
「確かあなたたち、壁を通り抜けたりできたわよね?」
「できるよ!」
快兎が元気よく答える。
「じゃあ、二人で手分けして倉庫の中を見てきてほしいの。倉庫には鍵がかかっていて、私たちじゃ入れないから」
「おっけー!」
僕は努めて明るい声を出した。
頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。
ずっと胸のあたりが落ち着かない。
僕は、ここを知っている。
そう確信しているのに、何も思い出せない。
いったい、僕は何を忘れているのだろう。
けれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
僕の異変に杏が気づけば、きっと心配するだろう。せっかく松本を助けようと頑張っているのに、余計な心配をかけたくはなかった。
「まかせて! レッドカーペット、絶対に見つけるから!」
僕は笑顔を作り、杏に向かってウインクをした。
「うん! よろしくね、ププ!」
杏が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、僕は少しだけほっとした。
……大丈夫。バレてない。
僕は快兎のあとを追いかけた。
「━━あった!」
レッドカーペットは、旧校舎の倉庫で案外あっさりと見つかった。
これで、杏も喜んでくれるだろう。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「ねーププ。松本さ、本当に助ける気?」
不意に、快兎がそんなことを言い出した。
「どういうこと?」
「あいつ、全然反省してるように見えないじゃん。それなのに、助けてくれーってさ、バカみたいじゃない? あいつ、人を殺してるんだよ? そのまま消えちまえって思わない?」
快兎の声からは、いつもの無邪気さが消えていた。
「……何が言いたいの?」
「あー、もう! 勘が悪いなあ。レッドカーペットなんてなかったことにして、杏にはそう報告しようって言ってるの。そうすれば、杏だって諦めるしかないでしょ? ないものは仕方ないんだからさ。僕たちが責められることもないし、松本が消えるのだって仕方のないことになるじゃん?」
快兎は、まるで名案を思いついた子どものように笑った。
「……正直に言えば、快兎の言うことは、その通りだと思う」
「でしょー? だからさ、ね?」
快兎が期待するように、僕の顔を覗き込んでくる。
確かに、松本を助ける必要なんてないのかもしれない。
反省しているようには見えないし、僕自身、あいつのことがどうしようもなく嫌いだ。できることなら、顔も見たくないほどに。
だけど。
「だけど、ごめん。僕は杏を裏切れない」
そう答えると、快兎は一瞬だけ黙り込んだ。
「はー、そっかあ〜……」
やがて、呆れたように言った。
「分かったよ。バカ真面目だね、ププ」
「━━ただいま! 杏!」
「あっ、ププ! 快兎! おかえり! どう? レッドカーペットはあった?」
「あったよ! ちょっと薄汚れてて、赤というより茶色だったけど!」
「どっちの倉庫にあったの?」
涼が尋ねた。
「旧校舎の方だよ」
「……問題が発生してしまったわね」
「えっ? なに?」
涼の言葉に、杏が不思議そうな顔をする。
「もう使われていない旧校舎の倉庫の鍵を借りるのは難しいわ。先生たちを納得させられる理由が思いつかないもの」
「うーん……」
杏は困ったように唸った。
「そういえば、快兎。あなた、実体のあるノートを持てていたわよね? 新校舎から鍵を持ってくることはできないのかしら。あなたなら人間には見えないし、誰にも気づかれずに持ってこられるんじゃない?」
「それがねー! 無理なんだよねー!」
快兎は、悪びれる様子もなく答えた。
「少なくとも、僕が干渉できるのはこの旧校舎にあるものだけなんだ! たぶん、ププも松本も、新校舎にあるものには干渉できないと思うよ!」
「なるほど……。それはどういう理屈なのかしら?」
涼は納得したような、それでいてまだ腑に落ちていないような顔で尋ねた。
「んー! たぶんだけどね、この旧校舎って、まだ使えるのに使われなくなっちゃったでしょ? だから、使われなくなったことへの未練みたいなものが残ってて、半分、僕たちと同じような存在になってるんだよねー!」
「旧校舎そのものが、プヤに近い存在になっているということ?」
「そうそう! でも、まだ半分だから、普通の人間にも見えるし、触れるし、なんだってできるんだ!」
「……なんだって、というわけでもないでしょう?」
「えー? まあ、そうだけど!」
快兎は、あっけらかんと笑った。
涼は小さく息をつき、旧校舎の方へと視線を向けた。
「いいこと思いついた!」
突然、杏が目を輝かせた。
「倉庫の内側から鍵を開けてもらうっていうのは!?」
まさしく名案を思いついた、といった様子である。
「ダメね。旧校舎の倉庫の鍵は、つまみを回すタイプじゃなくて南京錠よ」
「あ、そうだった〜……」
杏は見るからに肩を落とした。
「まあ、ひとまず一つ案を思いついたわ。今日はもう暗くなるし、また明日の放課後、ここに集合しましょう」
涼がそう言ったとき、気がつけば空はすっかり薄暗くなっていた。
「━━というわけで、鍵を借りてきたわ」
翌日の放課後、そこには得意げな顔で鍵を持つ涼の姿があった。
「えー! すごい、涼! どうやったの!?」
「『旧校舎はもう取り壊されるのに、倉庫の中身がまだ片付いていなくて大変でしょう。よかったら手伝いますよ。倉庫の鍵を貸してください』と、そう言っただけよ」
「すごーい! 涼! 天才!」
「ただ、その代わり、本当に片付けをしないといけないわ。中のものを運び出さずに鍵だけ返したら、何をしていたんだって話になるでしょう?」
涼は鍵を掲げながら、念を押すように言った。
「だから、今日は倉庫の中身を運び出すのが中心よ。幸い、旧校舎にあるものなら快兎もププも手伝えるわ。ちゃっちゃと終わらせましょう」
「よーし! じゃあ、さっそく始めよう!」
杏の掛け声を合図に、僕たちは倉庫の片付けに取りかかる。
……その前に。
僕たちは倉庫の隅に置いてあったレッドカーペットを、旧校舎へと運び込むことにした。レッドカーペットは意外と大きく、片付けの邪魔になりそうだったため、先に運び出しておいた方が効率的だろうという判断だった。
薄汚れたカーペットは、持ち上げてみると思いのほか重かった。長い間、誰にも使われずに放置されていたせいか、ところどころに折り目がつき、端の方も傷んでいる。
それでも、広げてみれば十分に使えそうだった。
「これがレッドカーペット……」
杏がしげしげと眺める。
「結構長いわね」
涼はカーペットの端から端まで目を走らせ、それから満足そうに頷いた。
「これなら、長さも足りそうね」
「よかったー!」
杏がほっとしたように笑う。
僕も胸を撫で下ろした。
これで、松本を助けるための準備は整った。
「じゃあ、これをここに置いて、片付けを始めましょうか」
涼の言葉に、僕たちはカーペットを邪魔にならない場所へ移動させ、倉庫へと戻った。
古い机や椅子、使い道のわからない道具が詰め込まれた段ボール。中には、何に使うのか見当もつかないようなものまであった。
人間には触れられない僕たちも、旧校舎にあるものなら運ぶことができる。快兎と協力して次々に荷物を運び出していくと、思いのほか作業は早く進んだ。
「ふぅー! ちょっと休憩!」
快兎が突然、両手を上げた。
「僕、トイレ!」
「えっ、快兎ってトイレに行くの?」
杏がきょとんとした顔で尋ねる。
「行かないけど!」
「行かないんかい!」
杏のツッコミに、快兎はけらけらと笑った。
「じゃ、ちょっと行ってくるねー!」
そう言い残すと、快兎は軽い足取りで倉庫を出ていった。
「……何しに行ったのかしら」
涼が呆れたように呟く。
「さあ……?」
僕にもさっぱりわからなかった。
まあ、快兎のことだ。すぐに戻ってくるだろう。
僕たちは気を取り直して作業を再開した。
それからしばらくして、倉庫の中はすっかり空になった。
「やったー! 終わったー!」
杏が大きく伸びをする。
「ええ。これなら問題なさそうね」
涼は手元のメモを確認し、満足そうに頷いた。
「それじゃあ、最後にレッドカーペットを運びましょう。あれを松本の教室まで持っていけば、今日の作業はおしまいよ」
「うん!」
僕たちは倉庫を出て、カーペットを置いておいた場所へと向かった。
ところが。
「あれ……?」
カーペットを広げた杏が、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、杏?」
「えっと……これ、こんなに短かったっけ?」
その言葉に、僕もカーペットへと目を向けた。
確かに、何かがおかしい。
さっき広げたときには、十分な長さがあったはずだ。
けれど、今、目の前にあるカーペットは明らかに短くなっていた。
「……ちょっと待って。これじゃあ、松本の教室から出口まで届かないんじゃない?」
涼の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
「えっ!? うそ!?」
杏が慌ててカーペットの端を持ち直す。
僕も反対側へ回り、もう一度、長さを確かめた。
……足りない。
どう考えても、足りなかった。
そのとき、僕はカーペットの端に目を留めた。
最初に見たときは、古びて傷んでいるだけだと思っていた。けれど、今見ると、片端の形が明らかにおかしい。まっすぐな直線になるはずの切り口が、ところどころ波打ち、歪んでいる。繊維も乱れていて、鋭い刃物で一気に切ったというより、急いで無理やり切ったように見えた。
「……これ、切られたんじゃないか?」
僕が呟くと、杏と涼もカーペットの端を覗き込んだ。
「切られたって……誰に?」
杏が不安そうに尋ねる。
僕だって聞きたい。
さっきは、確かに足りていたのだ。
誰かが勝手に切ったとしか考えられない。
でも、一体誰が?
そう考えたところで、僕はふと、さっきの出来事を思い出した。
━━僕、トイレ!
快兎は、まだ戻ってきていなかった。
快兎は、ずっと松本を助けることに反対していた。
杏や涼は知らないだろうが、僕にはレッドカーペットをなかったことにしようと提案してきたくらいだ。快兎がこんな行動に出る可能性は、十分に予測できたはずだった。
「……僕、快兎を探してくる」
そう言って、僕は立ち上がった。
「うん……。お願い、ププ」
不安そうな杏に頷き、僕は快兎を探しに旧校舎へと行く。
どこにいるのか、見当はつかなかった。けれど、旧校舎のどこかにいることは間違いない。
しばらく探したそのとき、階段の踊り場から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「いやー、うまくいったなあ!」
……いた。
覗き込むと、快兎が壁にもたれかかり、ひとりで楽しそうに笑っていた。
「快兎」
「ん? あれ、ププじゃん! どしたの?」
「……カーペット、切ったでしょ?」
「あっ、バレた?」
快兎は、いたずらを見つかった子どものように舌を出した。
「どうして、あんなことしたの?」
「えー? だって、松本なんか助けたくないもん」
あまりにもあっさりとした答えだった。
「……そっか」
僕は小さく息を吐いた。
快兎の気持ちは、わからなくもなかった。
松本は人をひとり、自殺に追い込んでいる。本人は反省していると言うけれど、とてもそうは思えない。そんな相手を、わざわざ助けてやる必要があるのか。
僕だって、そう思うことがある。
むしろ、松本に対しては、快兎以上に強い嫌悪感を抱いているのかもしれない。
それでも、杏は助けると決めたのだ。
「でもさ、快兎。杏は本気なんだよ。松本を助けたあと、ちゃんと反省させて、罪を償わせるつもりなんだ」
「ふーん。でも、そんなの無理じゃない?」
快兎はつまらなそうに答えた。
「だって、あいつ全然反省してないじゃん。助けたって、どうせまた同じことするよ」
「……そうかもしれないね」
否定はできなかった。
「じゃあ、いいじゃん。このまま消えちゃえば」
快兎は、さも当然のことのように言った。
僕はしばらく黙っていた。
快兎の言うことにも、一理あると思ってしまう自分がいた。松本を助けたところで、本当に何かが変わるのだろうか。杏の願いどおり、あいつが自分の罪と向き合う日が来るのだろうか。
そんな保証はどこにもない。
けれど。
「……それでも、杏は助けたいんだよ」
「だから?」
快兎が首を傾げる。
「僕は、杏に協力するって決めたんだ。だから、もう一度考え直してくれないかな。カーペットを切ったこと、杏たちに謝ってとは言わない。ただ、せめて切った部分を返してくれないかな」
できるだけ穏やかに、そう伝えた。
快兎はしばらく僕の顔を見つめていたが、やがてぷいっとそっぽを向いた。
「やだよ。僕、あいつ嫌いだもん」
「……そっか」
もう一度説得してみようかとも思った。
けれど、快兎の様子を見る限り、これ以上何を言っても考えを変えることはなさそうだった。
無理に言い聞かせたところで、余計に意地を張らせるだけかもしれない。
「わかった。無理にとは言わないよ」
「えっ、もういいの?」
快兎が意外そうに振り返った。
「うん。でも、杏たちは困ってる。それだけは覚えておいてね」
そう告げて、僕は踵を返した。
快兎を責めることはできなかった。
松本を嫌う気持ちは、僕にもある。快兎だけに考えを改めろと言うのは、どこか違う気がした。
ただ、杏の願いを叶えたい。
今の僕にできるのは、それだけだった。
杏たちのもとへ戻ると、二人はまだカーペットの前で頭を悩ませていた。
「ププ! 快兎くん、見つかった?」
「うん。やっぱり、快兎が切ったみたい」
「そう……」
杏は悲しそうに目を伏せた。
「説得はしてみたんだけど、ダメだった。ごめん」
「ううん、ププのせいじゃないよ!」
杏は慌てて首を横に振った。
涼は小さくため息をつく。
「まったく……。困ったものね」
「……でも、まだ諦めたくない」
杏は顔を上げ、短くなったカーペットを見つめた。
「何か、ほかに方法があるはずだよ」
その言葉に、僕もカーペットへと目を向けた。
取り壊しは明日。
もう、ほとんど時間は残されていない。
やがて日が完全に落ち、あたりは真っ暗になった。
もう打つ手はない。誰もがそう思い始めた頃、杏がふと口を開いた。
「ねえ、カーペットって、全部繋がっていないとダメなのかな?」
「それって、どういうこと?」
涼が聞き返すと、杏は考えを整理するように言葉を続けた。
「松本が歩く場所にレッドカーペットが必要なのは分かった。でも、歩く場所って、どこからどこまでのことを指すんだろう? 道全体? それとも……」
「……なるほどね」
涼が何かに気づいたように顔を上げた。
「やってみる価値はあるかも。齋藤に聞いてみよう」
その言葉を聞いて、杏の表情にわずかな希望が戻った。
スマホのライトを頼りに、真っ暗な旧校舎の中を進んでいく。
階段を上り、松本と齋藤がいる教室にたどり着いた。
教室の中では、齋藤が相変わらず松本の魂を抜こうとしていた。松本は白目を剥き、今にも気絶しそうな様子である。
「齋藤さん、こんばんは。……いつまでそうしてるんですか?」
杏が声をかけると、齋藤は手を止めずに答えた。
「あー、だってこいつ、こうしてないとすぐ暴れるし、暴言も止まらねえんだよ。それで、何の用?」
「ちょっと聞きたいことがあって……」
「ああん? ……あー、はいはい。レッドカーペットのことね。なるほどねえ」
齋藤はようやく手を止め、こちらを振り返った。
「へえ、面白いこと考えるじゃん。やってみる価値はあるかもよ」
その言葉を聞いた瞬間、杏の顔がぱっと明るくなった。
「よし! じゃあ、早速準備に取りかかろう!」
「齋藤さん! 準備できました!」
杏の声が、暗い旧校舎に響いた。
「よし。じゃあ、松本を元に戻すぞ」
齋藤が手を動かすと、白目を剥いていた松本の目に、みるみる生気が戻っていった。
「おい! お前ら、何してんだよ! ふざけやがって!」
松本は怒鳴りながら、周囲を睨みつけた。
「それで、俺を助ける手筈は整ったのか?」
その横柄な口ぶりに、思わず嫌悪感が込み上げる。
けれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「助かるよ、松本。そして、これから罪を償おう」
「はいはい、分かった分かった! いいから、さっさとしろ!」
松本は苛立たしげに言い捨てると、教室のドアを開けた。
「……なんだ、これ?」
ドアの向こうに広がっていた光景を見て、松本が怪訝そうに眉をひそめる。
床には、レッドカーペットが何本も並べられていた。
一本一本は短く、互いに繋がってはいない。まるで横断歩道の白線のように、一定の間隔を空けて敷かれている。
「レッドカーペットの上だけを歩くんだからね! 絶対にはみ出しちゃダメだよ!」
杏が念を押す。
松本は足元を見下ろし、納得がいかないとでも言いたげに顔をしかめた。
「よし! よし! あと少しだよ!」
あれから三十分。松本は、ようやく旧校舎の出口までたどり着いていた。
ヤンキーのくせに、いや、だからなのかは知らないが、松本は妙にバランス感覚が悪かった。何度も足を踏み外しかけ、そのたびに立ち止まっては体勢を立て直す。おかげで、ここまで来るのにずいぶんと時間がかかってしまった。
それでも、あと少しだ。
出口の向こうには、もう外の景色が見えている。松本が最後の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「そーーーれい! どーーーん!」
突然、小学生くらいの影が横から飛び出し、松本に勢いよく体当たりした。
「うおっ!?」
バランスを崩した松本の足が、レッドカーペットからはみ出す。
次の瞬間、松本の姿がふっと消えた。
「快兎!?」
誰かが叫ぶのとほぼ同時に、二階から怒声が響き渡った。
「このクソガキがぁーーー!!!」
「へへっ! じゃあね!」
快兎は得意げに笑うと、追いかけられる前にさっさとその場を離れていった。
「あっ! 待て!」
けれど、もう遅い。
快兎の姿は、あっという間に暗闇の中へ消えてしまった。
「今のって……!」
杏が驚いたように声を上げる。
「うん、快兎だよ」
僕は短く答えた。
「まさか、こんな邪魔のされ方をするなんてね」
涼が呆れたようにため息をつく。
「振り出しに戻る、か……」
杏は肩を落とした。せっかくここまで来たというのに、また最初からやり直しだ。
「でも、この調子だと何度でも邪魔してきそうね」
「うん。日が昇るまでになんとか松本を外に出さないと」
取り壊しが始まるのは明日だ。時間は限られている。快兎が何度も妨害してくるとなれば、悠長に構えているわけにもいかなかった。
すると、涼が杏に向き直った。
「杏。親に連絡しましょう。お互いの家に泊まるってことにして、今日は帰らないわよ」
「よしきた! やっちゃうよー!」
杏はすぐさま顔を上げ、いつもの調子で拳を握った。
あれから、どれだけの時間が経っただろうか。
僕たちは、いまだに快兎の妨害を阻止できずにいた。
快兎のやり方は単純だ。松本に体当たりをして、レッドカーペットの外へ押し出す。それだけである。
しかし、いつ飛び出してくるのか分からないうえ、小柄で小回りの利く身体と、まさしく風のようなスピードを持つ快兎を捕まえるのは困難だった。
気づけば、すでに東の空が白み始めていた。辺りもずいぶんと見やすくなっている。
チャンスは、もう一度きりといったところだろうか。
「クソガキ……ふざけやがって。絶対、後で痛い目に遭わせてやる」
松本は快兎への恨み言をぶつぶつと呟きながら、レッドカーペットの上をふらふらと歩いていた。
今のところ、妨害はない。
そのまま順調に進み、出口まであと十メートルというところまで来た。
そろそろ来る。
これまでの傾向から、僕はそう思った。
「そーーーれい! どーーーん! って!」
予想どおり、快兎が飛び出してきた。
「させるか!」
僕はとっさに、松本と快兎の間に身体を滑り込ませた。
「ププ、邪魔ーーー!」
次の瞬間、僕の身体はあっけなく吹き飛ばされた。背中から壁にぶつかり、頭に鈍い衝撃が走る。
松本は……あと五メートルくらいだろうか。
「うっ……」
突然、頭に激しい痛みが走った。
「ああ……ああ……」
何だ、これ。
頭が割れそうだ。
「ププ、ごめん。大丈夫? でも、邪魔するのが悪いよ」
快兎の声が聞こえた。
けれど、もはやそんなことはどうでもよかった。
松本はその隙になんとか出口までたどり着いたらしい。
「ププー! 快兎ー! 取り壊し用の重機がもう外に来てる! 早く出てこないと巻き込まれちゃう!」
杏の叫び声が響いた。
僕と快兎は、慌てて旧校舎の外へと飛び出した。
そして、次の瞬間。
轟音とともに、校舎が崩れ始めた。
壁が砕け、屋根が落ち、建物全体が土煙の向こうへと沈んでいく。
「うわー、俺の住処が……」
齋藤が崩れていく旧校舎を見つめ、泣いていた。
「危なかったー! ププ、快兎、大丈夫?」
杏が駆け寄ってくる。
「うん、大丈夫」
「大丈夫だよーー!」
快兎も元気よく返事をした。
僕は二人に背を向け、松本のもとへといった。
「しかし、なんとか成功してよかったよー! これで松本も罪を償えるね!」
杏がほっとしたように言う。
しかし、相変わらず松本は反省した様子はない。僕に向かって吐いたのは感謝の言葉でも、反省の言葉でもなかった。
松本は僕を睨みつけ、ガンを飛ばしてきた。
「お前よー、ギリギリじゃねえか! もっとなんとかできただろ! ふざけやがって、あと少しで死ぬとこだったんだぞ? ああ? なんだよ、その顔は?」
僕は黙って松本を見つめた。
こいつは、やっぱり反省なんかしないんだ。償う気だってきっと無い。
「松本。僕を覚えているか?」
「ああ? てめえ、ププだろ?」
「違うよ。まあ、こんな姿じゃ分からないだろうけどさ。『クソムシ』って言ったら理解できる?」
「は?」
「松本。お前がいじめていた『クソムシ』だよ」
「は?」
松本が間の抜けた声を漏らす。
後ろの方で、杏も驚いたように息を呑んだ。
「……ププ?」
松本の表情が、みるみるうちに変わっていった。
僕は杏と涼、快兎、そして齋藤の方へと振り返った。
「ごめん、杏、涼。そして……ありがとう、快兎」
「え?」
杏が不思議そうに声を漏らす。
「快兎のおかげで、全部思い出せたよ」
僕は再び松本に目を向けた。
全部、思い出したんだ。
忘れていた過去も。あの日、僕に何があったのかも。
そして、目の前にいる男が何をしたのかも。
「松本、地獄に落ちろ」
「そいつだ! 今、気づいた! そいつだよ! 旧校舎の悪いプヤ!!!」
齋藤が叫んだ。
「償いは地獄でしたらいい」
杏が何かを言おうとした。
けれど、その声が音になるよりも早く、僕は口を開いた。
「杏とはいえ、止めるなら容赦しないよ」
僕は微笑んだ。