プヤ交流
No. 16
小鳥遊杏の願い
やばいやばい、どうしよう!
私は廊下を走っていた。後ろから涼が追いかけてくる音が聞こえる。私たちの後ろでは、快兎がぴょこぴょこと跳ねながらついてきていた。ちなみに、ププは私の頭の上に乗っている。本人いわく、ここが一番安定するらしい。
「ねえ杏、そもそもレッドカーペットなんてどこにあるの?」
「知らない!」
「知らないのに走ってるの!?」
「走らないと見つからないかもしれないでしょ!」
「その理屈はおかしいと思う!」
涼の正論を聞き流し、私はさらに足を速めた。
松本を助けるためには、レッドカーペットが必要なのだ。正確に言うと、松本を旧校舎の外に連れ出すために必要らしい。
専門家を名乗る浮浪者、齋藤は、私たちにレッドカーペットの危険性を散々説明したあと、肝心なことはほとんど教えてくれなかった。とりあえず、レッドカーペットの上なら地縛霊である松本も移動できる。不確かな情報だが、今はそれに縋るしかない。それに、不思議とあの胡散臭い専門家、齋藤を信じていい気がしているのだ。
それなら、やるしかない。
そもそも、どうしてプヤを退治する専門家が、プヤを救うための道具を持っているのだろう。私はそのことが気になったけれど、今は考えている場合ではなかった。
「おい!△◻︎○×?⭐︎!」
廊下の向こうから、松本の怒鳴り声が響いた。齋藤から痛めつけられているために何を言っているかはわからない。声量だけは元気で、二回目の死が迫っているとは思えなかった。
「今!探してるから!」
「遅ぇんだよ!俺を誰だと思ってんだ!」
「地縛霊!」
「うるせえ!」
快兎がけらけらと笑って、私は思わず苦笑いをした。
松本は、どうにも好きになれないプヤだった。口は悪いし、すぐに怒鳴るし、助けてもらう側のくせに偉そうだ。ププなんて、私が名前を呼ぶたびに頭の上でぷやぷやと揺れているだけなのに。
それでも、消えてしまうのは嫌だった。
生きていた頃の記憶がなくても、死んでいることすら知らなくても、今ここにいる松本を助けられるのは、私たちだけなのだ。私は、目の前にいる誰かが消えてしまうことを、簡単に受け入れられない。
たとえ相手が、こんなに憎たらしくても。
「杏、あそこ!」
涼が指差した先に、古びた扉があった。音楽室だ。扉を開けると、使われなくなった楽器や椅子が、埃をかぶって並んでいた。壁際には、卒業式などで使う備品が積み上げられている。
「あった!」
私は思わず声を上げた。
レッドカーペットだ。丸められた状態で、棚の隙間に押し込まれている。
「レッドカーペットと言えば偉い人が歩くあれかと思ってたけど、これ、ただの赤い絨毯じゃない」
涼がぶつぶつつぶやいているのを横目に、私は思いっきりレッドカーペットを引っ張り出した。が、びくともしない。
涼と二人で引っ張り出す。思ったより重くて、私は後ろにひっくり返りそうになった。
「これ、絶対二人で運ぶものじゃないよ!」
「でも見つけちゃったんだから仕方ないでしょ!」
「見つけた人が責任を持つ、みたいな考え方やめて!」
そう言いながらも、涼はカーペットの端をしっかり握っていた。
私はこういう涼が好きだった。
私が何かを見つけて、何かをしたいと思って、勢いだけで走り出してしまったとき。涼はいつだって、文句を言いながらついてきてくれる。
プヤが見えなかった頃から、ずっとそうだった。私が空中に向かって話しかけているときも、誰もいないところに手を伸ばしているときも、涼は私を変な人だと笑ったりしなかった。
ただ、私が何を見ているのか知りたいと言った。その言葉が、私はとても嬉しかった。
だからいつかは、私が涼の力になりたい。
そう思っているのだけれど、涼はいつも私より先に行動してしまうので、なかなか難しい。
「杏、ぼーっとしてないで。行くよ」
「うん!」
私たちはカーペットを抱え、旧校舎の二階へ向かった。
松本は、教室の真ん中に座り込んでいた。
その隣には齋藤が立っている。松本の身体は、さっきよりもずっと薄くなっていた。輪郭が曖昧で、向こう側の壁が透けて見える。
「遅ぇよ……」
松本がぼそりと呟いた。
「ごめん!」
「謝る暇があったら早くしろ!」
「こんなやつ、助けなくていいんじゃない?それよりさ、みんなでドッヂボールしようよ!僕あれ、大好きなんだあ。一回もやったことないけど」
快兎はずっとこんなことを言っている。
「私もそう思う!助けてもらう人の態度じゃないと思う!」
「うるせえ! 頼んでねえ!」
「じゃあ助けない!」
「はあ!?」
「杏、今は喧嘩してる場合じゃないでしょ」
涼にたしなめられ、私は口を閉じた。松本は黙った私を見てふんと鼻を鳴らす。こういうところが、本当に腹立たしい。
私たちは廊下にカーペットを広げた。埃が舞い上がり、涼が盛大にくしゃみをする。快兎はそれを見て、なぜか大笑いだ。
「おい、そこのガキ。笑ってねえで手伝え!」
「僕、ガキじゃないもん!」
「ガキだろ!」
「ガキじゃない!」
「二人とも静かにして!」
涼が叫ぶと、二人はぴたりと黙った。こんなときでも、私は少しだけ笑ってしまう。
世界には、死んでいるのに元気な人もいるらしい。
松本がカーペットの上に移動すると、齋藤さんは私たちに手袋を渡した。
「絶対に松本から目を離すな。落ちそうになったらこれで受け止めろ。途中でカーペットから落ちれば、どうなるか分からない」
「分からないんですか?」
涼が尋ねた。
「分からないから危険なんだ」
それは専門家の言うことなのだろうか。
けれど、今さら文句を言っても仕方がない。私たちはカーペットの端を持ち、ゆっくりと歩き始めた。魔法の絨毯みたいで、結構面白い。
松本の身体が、少しずつ動く。たったそれだけのことなのに、私はひどく緊張していた。
廊下を曲がる。階段の前を通り過ぎる。窓から差し込む夕方の光が、赤いカーペットの上に細長く伸びていた。
もう少し。もう少しで、松本はこの校舎の外に出られる。
そのときだった。
「……なんで」
頭の上から、声がした。
ププだった。いつもなら、ふわふわと揺れているププが、私の頭の上でぴたりと動きを止めていた。
「どうしたの、ププ?」
「なんで、そいつを助けるの?」
私は思わず足を止めた。涼がこちらを振り返る。松本は、カーペットの上で黙っていた。
「そいつは、悪い奴だよ」
ププの声は、いつもより少しだけ低かった。
「そいつがいたから、兄さんは……」
そこで、ププは口を閉じた。私はププを見上げた。
おばけのような白い身体。丸い輪郭。目も口も、表情らしい表情もない。それなのに、今のププは、泣きそうに見えた。
「ププ、お兄さんがいるの?思い出したの?」
尋ねると、ププは小さく頷いた。
「いたよ。僕には、兄さんがいた。兄さんは、優しかった。僕が病院にいると、いつも会いに来てくれた。学校であったことを話してくれて、僕の好きなお菓子を内緒だぞって持ってきてくれて。僕が眠るまで、ずっとそばにいてくれた」
ププはいつもよりも頼りなく揺れた。
「でも、ある日から来なくなったんだ。どうしてかは分からなかった。お母さんに聞いても、何も教えてくれなかった。兄さんは忙しいんだよって。そればっかり」
「……ププ」
「僕、ずっと待ってたんだ。兄さんが来てくれるのを。病院の窓から外を見て、兄さんが来ないかなって。毎日、毎日」
私は、カーペットを握る手に力を込めた。ププが生きていた頃のことを、初めて知った。
「それで、ある日聞いたんだ。兄さんが学校で悪いことをしたって。誰かをいじめて、そのせいで大変なことになったって」
ププの声が震えた。
「いじめた相手が、そいつだったんだ」
私たちは、松本を見た。松本は顔を背けていた。今までのように怒鳴り返すことも、悪態をつくこともなかった。
「だから僕、ずっと思ってた。そいつが悪いんだって。そいつが兄さんを困らせたから、兄さんは僕に会いに来なくなったんだって。兄さんがいじめなんてするはずがない。お前の言動を見て、確信に変わったよ」
ププは、私の頭からゆっくりと降りた。そして、カーペットの上にいる松本を見つめた。
「僕、そいつが嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく気がついた。ププが松本を助けようとしなかった理由。松本がどんなプヤなのか、確かめようともしなかった理由。私たちと一緒に松本を助けることに、どこかためらいがあった理由。ププは、松本を恨んでいたのだ。
記憶をなくしても、名前をなくしても、その気持ちだけはなくならなかった。
「……杏」
涼が、小さく私の名前を呼んだ。私は何も答えられなかった。松本が、ゆっくりと口を開いた。
「……違う」
かすれた声だった。
「俺じゃねえよ」
松本は、顔を上げなかった。
「俺は、いじめられてた側だ。本当だ」
廊下が、しんと静まり返った。私は息を呑んだ。
「新聞に書いてあったのは、俺がいじめの加害者だったってことだった。でも、あれは違う。俺は……あいつらに、ずっといじめられてた」
松本の声は、驚くほど静かだった。
「兄貴分みたいな奴がいてさ。そいつが中心になって、俺をいじめてた。殴られたり、金を取られたり、教室で笑いものにされたり。俺が何をしても、何もしなくても、あいつらは俺をいじめた」
私は松本を見つめた。乱暴で、口が悪くて、偉そうで。そんな松本が、誰かにいじめられていたなんて、想像したこともなかった。
「……じゃあ、どうして」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「どうして、新聞には逆に書かれていたの?」
松本はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「俺が死んだからだよ」
私は、何も言えなくなった。
「俺が死んだあと、あいつらは好き勝手に話を作った。俺が悪かったことにすりゃ、自分たちが責められずに済むからな。先生だって、何も知らなかったわけじゃねえだろうに。結局、俺が悪いってことになった」
松本は笑った。笑った、というより、笑おうとしたのだと思う。
「俺が死んだら、全部終わると思ってた。でも、死んでも終わらなかった。俺はここに残った。誰も俺の話なんか聞いてくれなかった。俺が何をされたかなんて、誰も知ろうとしなかった」
私は、赤いカーペットを握りしめた。手袋越しに、指先が痛かった。
「……ごめん」
声を出したのは、ププだった。
「ごめんなさい。僕、ずっと、君が悪いんだと思ってた」
松本は顔を上げた。
「……お前のせいじゃねえよ」
「でも、僕は君を恨んでた」
「だから何だよ」
松本の声が、少しだけ大きくなった。
「お前が俺を恨んでたからって、俺がいじめられたことがなくなるわけじゃねえだろ。お前の兄貴が何をしたかも、俺が何をされたかも、変わらねえよ」
松本は、何も知らない私たちに、自分のことを話してくれた。ずっと誰にも信じてもらえなかったことを。死んでからも、誰にも分かってもらえなかったことを。
それなのに、松本はププを責めなかった。ププが、自分を恨んでいたことを知っても。
「……俺だって、会いたい奴がいたんだよ」
松本は、ぽつりと呟いた。
「俺が死んだとき、誰か一人でも、俺のことを信じてくれてたらよかったのにな」
その言葉が、胸に刺さった。私は、松本を助けたいと思っていた。でも、それは、松本のことを何も知らないままの気持ちだった。
私はただ、目の前で消えそうになっているプヤを救いたかっただけなのだ。
松本が何をされたのか。何を思っていたのか。
どうしてこんなにも怒りっぽいのか。私は、何も知らなかった。
ププのことだって同じだった。可愛い見た目で、落ち着いていて、私たちのそばにいてくれるプヤ。
けれど、ププにも、誰にも言えなかった悲しい気持ちがあった。私が知っていると思っていたププは、ほんの一部分でしかなかったのだ。
そのとき、快兎が口を開いた。
「……ねえ」
いつもの騒がしい声ではなかった。
「僕、思い出したかもしれない」
私たちは、一斉に快兎を見た。
「昔ね、ここで、よく聞いたんだ。松本って人が悪い奴だって。みんな、そう言ってた。でもね、僕、夜になると聞こえたんだよ。誰かが泣いてる声」
快兎は、自分の足元を見つめた。
「僕、誰が泣いてるのか、知らなかった。でも、ずっと聞こえてた。誰かが、やめてって言ってた」
快兎の足は、相変わらず透けていた。
いつからここにいるのかも、自分がどうして死んだのかも、彼はまだ思い出せないのかもしれない。
それでも、彼の中には残っていた。誰かが泣いていたこと。誰かが、助けを求めていたこと。
「……そうか」
松本が呟いた。
「聞こえてた奴もいたんだな」
私は、何も言えなかった。そのとき、松本の身体が大きく揺れた。
「松本!」
涼が叫んだ。輪郭が薄くなっている。腕の先が、今にも消えてしまいそうだった。
「まずい、急げ!」
齋藤が叫ぶ。私たちは慌ててカーペットを引っ張った。廊下の先には、外へ続く扉がある。あと少し。あと少しなのに。
松本の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。
「……俺、もういいわ」
松本が呟いた。
「どうせ、誰も信じねえんだし」
「何言ってるの!」
私は思わず叫んだ。
「まだ終わってないよ!」
「うるせえな……」
「うるさくていいの! 私は、松本のことを信じる!」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。松本が本当に何も悪くなかったのか、私はすべてを知っているわけではない。それでも、松本がいじめられていたことを、誰にも信じてもらえなかったことを、なかったことにはしたくなかった。
「私は、松本が話してくれたことを信じる。松本がどんな人だったとしても、いじめられていい理由にはならないよ!」
松本が、目を見開いた。私は、カーペットを握り直した。
「だから、勝手に諦めないで!」
涼が、隣で頷いた。
「杏の言う通り。私たちは、あなたのことを知りたいと思ってる。だから、もう少しだけ付き合って」
快兎も、ぴょんと跳ねた。
「僕も! 僕も知りたい!」
松本は、しばらく私たちを見つめていた。それから、小さく笑った。
「……お前ら、変な奴らだな」
その声は、さっきよりもずっと穏やかだった。私たちは、再び歩き出した。
一歩。もう一歩。そして、ついに。
松本は、旧校舎の外へ出た。夕方の風が、私たちの頬を撫でた。松本の身体は、もうほとんど透けていなかった。
「……出られた」
松本が、呆然と呟いた。
「出られたね!」
私は笑った。その瞬間、松本の身体が、淡い光に包まれた。
足元から、少しずつ光が昇っていく。
「おい、これ……」
松本が、自分の手を見つめた。
「俺、消えんのか?」
「違うよ」
齋藤が言った。
「おそらく、成仏だ。未練が解けたんだろう」
松本は、しばらく自分の手を見つめていた。そして、私たちの方を向いた。
「……ありがとな」
私は、思わず目を見開いた。松本が、お礼を言った。あの松本が。
「お礼が言えるんじゃん!」
「うるせえ!」
いつもの声が返ってきた。私は笑った。涼も笑った。
快兎は、なぜか泣いていた。
そして、松本の身体は、光の中へ溶けていった。最後に残ったのは、ほんの小さな声だった。
「……今度こそ、ちゃんと覚えててくれよ」
私は、何度も頷いた。忘れない。松本がここにいたこと。松本が、誰かにいじめられていたこと。誰にも信じてもらえなかったこと。
そして、最後に私たちが、松本の話を聞いたこと。
全部、忘れない。光が消えたあと、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
隣では、涼が静かに私の肩に手を置いていた。ププは、私の頭の上でじっとしていた。
「……ププ」
私は、そっと声をかけた。
「お兄さんのこと、もっと教えてくれる?」
ププは、ゆっくりと頷いた。
「うん」
その声は、少しだけ震えていた。
「僕、思い出したんだ」
ププは、遠くを見つめた。
「僕の兄さんは、優しかった。僕にとって、世界で一番かっこいい人だった」
私は黙って聞いていた。
「でも、兄さんは、松本をいじめてたんだ」
ププの言葉に、胸が痛んだ。
「兄さんが何をしたのか、僕は知らなかった。病院にいる僕には、学校で何が起きているのか分からなかった。ただ、兄さんが来なくなって、寂しくて、悲しくて……」
ププは、小さく揺れた。
「僕は、兄さんが来なくなった理由を、松本のせいにしたんだ。兄さんが悪いことをしたって知ってからも、そう思いたかった。だって、そうじゃなかったら、兄さんが僕を置いていった理由が分からなかったから」
私は、ププを見つめた。病気で、病院から出られなかったププ。大好きなお兄さんが、ある日突然、会いに来なくなった。どうしてなのか分からないまま、ずっと待ち続けた。そんなププにとって、松本は、兄を奪った相手だったのだろう。
たとえ、それが間違いだったとしても。
「……兄さんは、どうして来なくなったんだろう」
ププが呟いた。私は答えられなかった。きっと、お兄さんも苦しかったのだと思う。自分がいじめていた相手が死んでしまったこと。
その責任を問われ、周囲から責められたこと。自分のしたことから逃げたくて、誰にも会いたくなくなったのかもしれない。
あるいは、ププに自分のしたことを知られたくなかったのかもしれない。
けれど、それは私の想像でしかない。お兄さんが何を思っていたのか、本当のところは分からない。
ただ、一つだけ分かることがあった。ププは、お兄さんに会いたかったのだ。それだけは、間違いなかった。
「……ププ」
私は、そっと手を伸ばした。もちろん、プヤであるププに触れることはできない。それでも、私は手を伸ばした。
「寂しかったね」
ププは、何も答えなかった。ただ、私の手のひらに、そっと身体を寄せた。触れたわけではない。けれど、確かにそこに、ププがいた。私は、ププを抱きしめるように、両手を丸めた。
「……うん」
ププが、小さく呟いた。
「寂しかった」
ププの中には残っていたのだ。お兄さんに会いたいという気持ち。お兄さんが好きだったという気持ち。
そして、お兄さんを奪ったと思い込んでいた相手への、消えない恨み。私は、ププの頭を撫でるように、手を動かした。
「……ねえ、ププ」
「なあに?」
「お兄さんのこと、まだ好き?」
ププは、少しだけ考えた。そして、ゆっくりと頷いた。
「うん。大好きだよ」
私は、空を見上げた。夕焼けが、校舎の窓を赤く染めていた。
きっと、ププのお兄さんは、もうどこにもいないのだろう。生きているのか、死んでいるのか。今、どこで何をしているのか。私には分からない。
ププがもう一度お兄さんに会えるのかどうかも、分からない。
それでも、ププがお兄さんを好きだったこと。松本が、誰かに信じてほしかったこと。その二つは、どちらも本当だった。
どちらか一方だけが正しくて、もう一方が間違っているわけではない。人の気持ちは、そんなに簡単に分けられるものではないのだと思う。
「杏」
涼が、私の名前を呼んだ。
「帰ろうか」
「……うん」
私は頷いた。ププは、いつものように私の頭の上に乗った。
快兎は、私たちの周りをぴょこぴょこと飛び回っている。どうやら、まだ話したいことがたくさんあるらしい。
私は、旧校舎を振り返った。もうすぐ、この校舎は取り壊される。ここにあったものは、きっと少しずつなくなっていくのだろう。
壁も、床も、掲示板も。誰かが残した言葉も、誰かが隠した気持ちも。
けれど、私は忘れたくなかった。
それぞれ、誰かを大切に思っていたこと。その気持ちが、時には誰かを傷つけてしまうこともあるのだということ。
私は、まだ何も知らない。プヤのことも、人のことも。それでも、これからも、目の前にいる誰かを知ろうとしたいと思った。
たとえ、その人がどんな姿をしていても。何を考えているのか分からなくても。
私は、ちゃんと話を聞きたい。
私は、小鳥遊杏。プヤが見える、普通の女子高校生だ。
「ところで杏。明日の小テスト、勉強した?」
「えっ」
「えっ、じゃないよ」
そうだった。明日は数学の小テストがある。しかも、範囲が広い。
「やばいやばい、どうしよう!」
私は、また走り出した。
「ちょっと! 今度は何!?」
「勉強するの!」
「家に帰ってからでいいでしょ!」
「今すぐやらなきゃ間に合わない!」
涼が、呆れたように笑った。頭の上では、ププがぷやぷやと揺れている。快兎が、けらけらと笑っている。
夕焼けの中、私たちは走った。明日もきっと、いつも通りの一日がやってくる。
その中で、私はまた誰かと出会うのだろう。
そして、その誰かにも、きっと私の知らない物語がある。
だから私は、走るのだ。知らない誰かの物語に、少しでも触れるために。
やばいやばい、どうしよう!
私は廊下を走っていた。後ろから涼が追いかけてくる音が聞こえる。私たちの後ろでは、快兎がぴょこぴょこと跳ねながらついてきていた。ちなみに、ププは私の頭の上に乗っている。本人いわく、ここが一番安定するらしい。
「ねえ杏、そもそもレッドカーペットなんてどこにあるの?」
「知らない!」
「知らないのに走ってるの!?」
「走らないと見つからないかもしれないでしょ!」
「その理屈はおかしいと思う!」
涼の正論を聞き流し、私はさらに足を速めた。
松本を助けるためには、レッドカーペットが必要なのだ。正確に言うと、松本を旧校舎の外に連れ出すために必要らしい。
専門家を名乗る浮浪者、齋藤は、私たちにレッドカーペットの危険性を散々説明したあと、肝心なことはほとんど教えてくれなかった。とりあえず、レッドカーペットの上なら地縛霊である松本も移動できる。不確かな情報だが、今はそれに縋るしかない。それに、不思議とあの胡散臭い専門家、齋藤を信じていい気がしているのだ。
それなら、やるしかない。
そもそも、どうしてプヤを退治する専門家が、プヤを救うための道具を持っているのだろう。私はそのことが気になったけれど、今は考えている場合ではなかった。
「おい!△◻︎○×?⭐︎!」
廊下の向こうから、松本の怒鳴り声が響いた。齋藤から痛めつけられているために何を言っているかはわからない。声量だけは元気で、二回目の死が迫っているとは思えなかった。
「今!探してるから!」
「遅ぇんだよ!俺を誰だと思ってんだ!」
「地縛霊!」
「うるせえ!」
快兎がけらけらと笑って、私は思わず苦笑いをした。
松本は、どうにも好きになれないプヤだった。口は悪いし、すぐに怒鳴るし、助けてもらう側のくせに偉そうだ。ププなんて、私が名前を呼ぶたびに頭の上でぷやぷやと揺れているだけなのに。
それでも、消えてしまうのは嫌だった。
生きていた頃の記憶がなくても、死んでいることすら知らなくても、今ここにいる松本を助けられるのは、私たちだけなのだ。私は、目の前にいる誰かが消えてしまうことを、簡単に受け入れられない。
たとえ相手が、こんなに憎たらしくても。
「杏、あそこ!」
涼が指差した先に、古びた扉があった。音楽室だ。扉を開けると、使われなくなった楽器や椅子が、埃をかぶって並んでいた。壁際には、卒業式などで使う備品が積み上げられている。
「あった!」
私は思わず声を上げた。
レッドカーペットだ。丸められた状態で、棚の隙間に押し込まれている。
「レッドカーペットと言えば偉い人が歩くあれかと思ってたけど、これ、ただの赤い絨毯じゃない」
涼がぶつぶつつぶやいているのを横目に、私は思いっきりレッドカーペットを引っ張り出した。が、びくともしない。
涼と二人で引っ張り出す。思ったより重くて、私は後ろにひっくり返りそうになった。
「これ、絶対二人で運ぶものじゃないよ!」
「でも見つけちゃったんだから仕方ないでしょ!」
「見つけた人が責任を持つ、みたいな考え方やめて!」
そう言いながらも、涼はカーペットの端をしっかり握っていた。
私はこういう涼が好きだった。
私が何かを見つけて、何かをしたいと思って、勢いだけで走り出してしまったとき。涼はいつだって、文句を言いながらついてきてくれる。
プヤが見えなかった頃から、ずっとそうだった。私が空中に向かって話しかけているときも、誰もいないところに手を伸ばしているときも、涼は私を変な人だと笑ったりしなかった。
ただ、私が何を見ているのか知りたいと言った。その言葉が、私はとても嬉しかった。
だからいつかは、私が涼の力になりたい。
そう思っているのだけれど、涼はいつも私より先に行動してしまうので、なかなか難しい。
「杏、ぼーっとしてないで。行くよ」
「うん!」
私たちはカーペットを抱え、旧校舎の二階へ向かった。
松本は、教室の真ん中に座り込んでいた。
その隣には齋藤が立っている。松本の身体は、さっきよりもずっと薄くなっていた。輪郭が曖昧で、向こう側の壁が透けて見える。
「遅ぇよ……」
松本がぼそりと呟いた。
「ごめん!」
「謝る暇があったら早くしろ!」
「こんなやつ、助けなくていいんじゃない?それよりさ、みんなでドッヂボールしようよ!僕あれ、大好きなんだあ。一回もやったことないけど」
快兎はずっとこんなことを言っている。
「私もそう思う!助けてもらう人の態度じゃないと思う!」
「うるせえ! 頼んでねえ!」
「じゃあ助けない!」
「はあ!?」
「杏、今は喧嘩してる場合じゃないでしょ」
涼にたしなめられ、私は口を閉じた。松本は黙った私を見てふんと鼻を鳴らす。こういうところが、本当に腹立たしい。
私たちは廊下にカーペットを広げた。埃が舞い上がり、涼が盛大にくしゃみをする。快兎はそれを見て、なぜか大笑いだ。
「おい、そこのガキ。笑ってねえで手伝え!」
「僕、ガキじゃないもん!」
「ガキだろ!」
「ガキじゃない!」
「二人とも静かにして!」
涼が叫ぶと、二人はぴたりと黙った。こんなときでも、私は少しだけ笑ってしまう。
世界には、死んでいるのに元気な人もいるらしい。
松本がカーペットの上に移動すると、齋藤さんは私たちに手袋を渡した。
「絶対に松本から目を離すな。落ちそうになったらこれで受け止めろ。途中でカーペットから落ちれば、どうなるか分からない」
「分からないんですか?」
涼が尋ねた。
「分からないから危険なんだ」
それは専門家の言うことなのだろうか。
けれど、今さら文句を言っても仕方がない。私たちはカーペットの端を持ち、ゆっくりと歩き始めた。魔法の絨毯みたいで、結構面白い。
松本の身体が、少しずつ動く。たったそれだけのことなのに、私はひどく緊張していた。
廊下を曲がる。階段の前を通り過ぎる。窓から差し込む夕方の光が、赤いカーペットの上に細長く伸びていた。
もう少し。もう少しで、松本はこの校舎の外に出られる。
そのときだった。
「……なんで」
頭の上から、声がした。
ププだった。いつもなら、ふわふわと揺れているププが、私の頭の上でぴたりと動きを止めていた。
「どうしたの、ププ?」
「なんで、そいつを助けるの?」
私は思わず足を止めた。涼がこちらを振り返る。松本は、カーペットの上で黙っていた。
「そいつは、悪い奴だよ」
ププの声は、いつもより少しだけ低かった。
「そいつがいたから、兄さんは……」
そこで、ププは口を閉じた。私はププを見上げた。
おばけのような白い身体。丸い輪郭。目も口も、表情らしい表情もない。それなのに、今のププは、泣きそうに見えた。
「ププ、お兄さんがいるの?思い出したの?」
尋ねると、ププは小さく頷いた。
「いたよ。僕には、兄さんがいた。兄さんは、優しかった。僕が病院にいると、いつも会いに来てくれた。学校であったことを話してくれて、僕の好きなお菓子を内緒だぞって持ってきてくれて。僕が眠るまで、ずっとそばにいてくれた」
ププはいつもよりも頼りなく揺れた。
「でも、ある日から来なくなったんだ。どうしてかは分からなかった。お母さんに聞いても、何も教えてくれなかった。兄さんは忙しいんだよって。そればっかり」
「……ププ」
「僕、ずっと待ってたんだ。兄さんが来てくれるのを。病院の窓から外を見て、兄さんが来ないかなって。毎日、毎日」
私は、カーペットを握る手に力を込めた。ププが生きていた頃のことを、初めて知った。
「それで、ある日聞いたんだ。兄さんが学校で悪いことをしたって。誰かをいじめて、そのせいで大変なことになったって」
ププの声が震えた。
「いじめた相手が、そいつだったんだ」
私たちは、松本を見た。松本は顔を背けていた。今までのように怒鳴り返すことも、悪態をつくこともなかった。
「だから僕、ずっと思ってた。そいつが悪いんだって。そいつが兄さんを困らせたから、兄さんは僕に会いに来なくなったんだって。兄さんがいじめなんてするはずがない。お前の言動を見て、確信に変わったよ」
ププは、私の頭からゆっくりと降りた。そして、カーペットの上にいる松本を見つめた。
「僕、そいつが嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく気がついた。ププが松本を助けようとしなかった理由。松本がどんなプヤなのか、確かめようともしなかった理由。私たちと一緒に松本を助けることに、どこかためらいがあった理由。ププは、松本を恨んでいたのだ。
記憶をなくしても、名前をなくしても、その気持ちだけはなくならなかった。
「……杏」
涼が、小さく私の名前を呼んだ。私は何も答えられなかった。松本が、ゆっくりと口を開いた。
「……違う」
かすれた声だった。
「俺じゃねえよ」
松本は、顔を上げなかった。
「俺は、いじめられてた側だ。本当だ」
廊下が、しんと静まり返った。私は息を呑んだ。
「新聞に書いてあったのは、俺がいじめの加害者だったってことだった。でも、あれは違う。俺は……あいつらに、ずっといじめられてた」
松本の声は、驚くほど静かだった。
「兄貴分みたいな奴がいてさ。そいつが中心になって、俺をいじめてた。殴られたり、金を取られたり、教室で笑いものにされたり。俺が何をしても、何もしなくても、あいつらは俺をいじめた」
私は松本を見つめた。乱暴で、口が悪くて、偉そうで。そんな松本が、誰かにいじめられていたなんて、想像したこともなかった。
「……じゃあ、どうして」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「どうして、新聞には逆に書かれていたの?」
松本はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「俺が死んだからだよ」
私は、何も言えなくなった。
「俺が死んだあと、あいつらは好き勝手に話を作った。俺が悪かったことにすりゃ、自分たちが責められずに済むからな。先生だって、何も知らなかったわけじゃねえだろうに。結局、俺が悪いってことになった」
松本は笑った。笑った、というより、笑おうとしたのだと思う。
「俺が死んだら、全部終わると思ってた。でも、死んでも終わらなかった。俺はここに残った。誰も俺の話なんか聞いてくれなかった。俺が何をされたかなんて、誰も知ろうとしなかった」
私は、赤いカーペットを握りしめた。手袋越しに、指先が痛かった。
「……ごめん」
声を出したのは、ププだった。
「ごめんなさい。僕、ずっと、君が悪いんだと思ってた」
松本は顔を上げた。
「……お前のせいじゃねえよ」
「でも、僕は君を恨んでた」
「だから何だよ」
松本の声が、少しだけ大きくなった。
「お前が俺を恨んでたからって、俺がいじめられたことがなくなるわけじゃねえだろ。お前の兄貴が何をしたかも、俺が何をされたかも、変わらねえよ」
松本は、何も知らない私たちに、自分のことを話してくれた。ずっと誰にも信じてもらえなかったことを。死んでからも、誰にも分かってもらえなかったことを。
それなのに、松本はププを責めなかった。ププが、自分を恨んでいたことを知っても。
「……俺だって、会いたい奴がいたんだよ」
松本は、ぽつりと呟いた。
「俺が死んだとき、誰か一人でも、俺のことを信じてくれてたらよかったのにな」
その言葉が、胸に刺さった。私は、松本を助けたいと思っていた。でも、それは、松本のことを何も知らないままの気持ちだった。
私はただ、目の前で消えそうになっているプヤを救いたかっただけなのだ。
松本が何をされたのか。何を思っていたのか。
どうしてこんなにも怒りっぽいのか。私は、何も知らなかった。
ププのことだって同じだった。可愛い見た目で、落ち着いていて、私たちのそばにいてくれるプヤ。
けれど、ププにも、誰にも言えなかった悲しい気持ちがあった。私が知っていると思っていたププは、ほんの一部分でしかなかったのだ。
そのとき、快兎が口を開いた。
「……ねえ」
いつもの騒がしい声ではなかった。
「僕、思い出したかもしれない」
私たちは、一斉に快兎を見た。
「昔ね、ここで、よく聞いたんだ。松本って人が悪い奴だって。みんな、そう言ってた。でもね、僕、夜になると聞こえたんだよ。誰かが泣いてる声」
快兎は、自分の足元を見つめた。
「僕、誰が泣いてるのか、知らなかった。でも、ずっと聞こえてた。誰かが、やめてって言ってた」
快兎の足は、相変わらず透けていた。
いつからここにいるのかも、自分がどうして死んだのかも、彼はまだ思い出せないのかもしれない。
それでも、彼の中には残っていた。誰かが泣いていたこと。誰かが、助けを求めていたこと。
「……そうか」
松本が呟いた。
「聞こえてた奴もいたんだな」
私は、何も言えなかった。そのとき、松本の身体が大きく揺れた。
「松本!」
涼が叫んだ。輪郭が薄くなっている。腕の先が、今にも消えてしまいそうだった。
「まずい、急げ!」
齋藤が叫ぶ。私たちは慌ててカーペットを引っ張った。廊下の先には、外へ続く扉がある。あと少し。あと少しなのに。
松本の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。
「……俺、もういいわ」
松本が呟いた。
「どうせ、誰も信じねえんだし」
「何言ってるの!」
私は思わず叫んだ。
「まだ終わってないよ!」
「うるせえな……」
「うるさくていいの! 私は、松本のことを信じる!」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。松本が本当に何も悪くなかったのか、私はすべてを知っているわけではない。それでも、松本がいじめられていたことを、誰にも信じてもらえなかったことを、なかったことにはしたくなかった。
「私は、松本が話してくれたことを信じる。松本がどんな人だったとしても、いじめられていい理由にはならないよ!」
松本が、目を見開いた。私は、カーペットを握り直した。
「だから、勝手に諦めないで!」
涼が、隣で頷いた。
「杏の言う通り。私たちは、あなたのことを知りたいと思ってる。だから、もう少しだけ付き合って」
快兎も、ぴょんと跳ねた。
「僕も! 僕も知りたい!」
松本は、しばらく私たちを見つめていた。それから、小さく笑った。
「……お前ら、変な奴らだな」
その声は、さっきよりもずっと穏やかだった。私たちは、再び歩き出した。
一歩。もう一歩。そして、ついに。
松本は、旧校舎の外へ出た。夕方の風が、私たちの頬を撫でた。松本の身体は、もうほとんど透けていなかった。
「……出られた」
松本が、呆然と呟いた。
「出られたね!」
私は笑った。その瞬間、松本の身体が、淡い光に包まれた。
足元から、少しずつ光が昇っていく。
「おい、これ……」
松本が、自分の手を見つめた。
「俺、消えんのか?」
「違うよ」
齋藤が言った。
「おそらく、成仏だ。未練が解けたんだろう」
松本は、しばらく自分の手を見つめていた。そして、私たちの方を向いた。
「……ありがとな」
私は、思わず目を見開いた。松本が、お礼を言った。あの松本が。
「お礼が言えるんじゃん!」
「うるせえ!」
いつもの声が返ってきた。私は笑った。涼も笑った。
快兎は、なぜか泣いていた。
そして、松本の身体は、光の中へ溶けていった。最後に残ったのは、ほんの小さな声だった。
「……今度こそ、ちゃんと覚えててくれよ」
私は、何度も頷いた。忘れない。松本がここにいたこと。松本が、誰かにいじめられていたこと。誰にも信じてもらえなかったこと。
そして、最後に私たちが、松本の話を聞いたこと。
全部、忘れない。光が消えたあと、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
隣では、涼が静かに私の肩に手を置いていた。ププは、私の頭の上でじっとしていた。
「……ププ」
私は、そっと声をかけた。
「お兄さんのこと、もっと教えてくれる?」
ププは、ゆっくりと頷いた。
「うん」
その声は、少しだけ震えていた。
「僕、思い出したんだ」
ププは、遠くを見つめた。
「僕の兄さんは、優しかった。僕にとって、世界で一番かっこいい人だった」
私は黙って聞いていた。
「でも、兄さんは、松本をいじめてたんだ」
ププの言葉に、胸が痛んだ。
「兄さんが何をしたのか、僕は知らなかった。病院にいる僕には、学校で何が起きているのか分からなかった。ただ、兄さんが来なくなって、寂しくて、悲しくて……」
ププは、小さく揺れた。
「僕は、兄さんが来なくなった理由を、松本のせいにしたんだ。兄さんが悪いことをしたって知ってからも、そう思いたかった。だって、そうじゃなかったら、兄さんが僕を置いていった理由が分からなかったから」
私は、ププを見つめた。病気で、病院から出られなかったププ。大好きなお兄さんが、ある日突然、会いに来なくなった。どうしてなのか分からないまま、ずっと待ち続けた。そんなププにとって、松本は、兄を奪った相手だったのだろう。
たとえ、それが間違いだったとしても。
「……兄さんは、どうして来なくなったんだろう」
ププが呟いた。私は答えられなかった。きっと、お兄さんも苦しかったのだと思う。自分がいじめていた相手が死んでしまったこと。
その責任を問われ、周囲から責められたこと。自分のしたことから逃げたくて、誰にも会いたくなくなったのかもしれない。
あるいは、ププに自分のしたことを知られたくなかったのかもしれない。
けれど、それは私の想像でしかない。お兄さんが何を思っていたのか、本当のところは分からない。
ただ、一つだけ分かることがあった。ププは、お兄さんに会いたかったのだ。それだけは、間違いなかった。
「……ププ」
私は、そっと手を伸ばした。もちろん、プヤであるププに触れることはできない。それでも、私は手を伸ばした。
「寂しかったね」
ププは、何も答えなかった。ただ、私の手のひらに、そっと身体を寄せた。触れたわけではない。けれど、確かにそこに、ププがいた。私は、ププを抱きしめるように、両手を丸めた。
「……うん」
ププが、小さく呟いた。
「寂しかった」
ププの中には残っていたのだ。お兄さんに会いたいという気持ち。お兄さんが好きだったという気持ち。
そして、お兄さんを奪ったと思い込んでいた相手への、消えない恨み。私は、ププの頭を撫でるように、手を動かした。
「……ねえ、ププ」
「なあに?」
「お兄さんのこと、まだ好き?」
ププは、少しだけ考えた。そして、ゆっくりと頷いた。
「うん。大好きだよ」
私は、空を見上げた。夕焼けが、校舎の窓を赤く染めていた。
きっと、ププのお兄さんは、もうどこにもいないのだろう。生きているのか、死んでいるのか。今、どこで何をしているのか。私には分からない。
ププがもう一度お兄さんに会えるのかどうかも、分からない。
それでも、ププがお兄さんを好きだったこと。松本が、誰かに信じてほしかったこと。その二つは、どちらも本当だった。
どちらか一方だけが正しくて、もう一方が間違っているわけではない。人の気持ちは、そんなに簡単に分けられるものではないのだと思う。
「杏」
涼が、私の名前を呼んだ。
「帰ろうか」
「……うん」
私は頷いた。ププは、いつものように私の頭の上に乗った。
快兎は、私たちの周りをぴょこぴょこと飛び回っている。どうやら、まだ話したいことがたくさんあるらしい。
私は、旧校舎を振り返った。もうすぐ、この校舎は取り壊される。ここにあったものは、きっと少しずつなくなっていくのだろう。
壁も、床も、掲示板も。誰かが残した言葉も、誰かが隠した気持ちも。
けれど、私は忘れたくなかった。
それぞれ、誰かを大切に思っていたこと。その気持ちが、時には誰かを傷つけてしまうこともあるのだということ。
私は、まだ何も知らない。プヤのことも、人のことも。それでも、これからも、目の前にいる誰かを知ろうとしたいと思った。
たとえ、その人がどんな姿をしていても。何を考えているのか分からなくても。
私は、ちゃんと話を聞きたい。
私は、小鳥遊杏。プヤが見える、普通の女子高校生だ。
「ところで杏。明日の小テスト、勉強した?」
「えっ」
「えっ、じゃないよ」
そうだった。明日は数学の小テストがある。しかも、範囲が広い。
「やばいやばい、どうしよう!」
私は、また走り出した。
「ちょっと! 今度は何!?」
「勉強するの!」
「家に帰ってからでいいでしょ!」
「今すぐやらなきゃ間に合わない!」
涼が、呆れたように笑った。頭の上では、ププがぷやぷやと揺れている。快兎が、けらけらと笑っている。
夕焼けの中、私たちは走った。明日もきっと、いつも通りの一日がやってくる。
その中で、私はまた誰かと出会うのだろう。
そして、その誰かにも、きっと私の知らない物語がある。
だから私は、走るのだ。知らない誰かの物語に、少しでも触れるために。