リスキーダイス
No. 7
横川の生活が一変したのはその翌朝のことで、昨日、一昨日よりも一時間は早くに起きる。寝癖直しのスプレーや、制汗剤、冷水で顔を洗うだけでなくって、朝のシャワーを欠かさず浴びる。いつの間にか犬も飼っていて、さくら、という名前をつけている。七歳の雌ということだけれど、最低限、最寄りのコンビニまで五分ほど、リードを引いて散歩をする。そのコンビニで朝飯を食う。物価高だが気にも留めずに牛丼を買い、それとは別で温泉卵もカゴに入れる。レジで七四〇円支払う。
帰ってきて牛丼を食い、ご馳走様でした、と手を合わせたあと、さくらの顎をわしゃわしゃと撫でる。それからスーツに洋服ブラシを通して玄関で着る。駅とは逆方向に、歩いてバス停へ向かう。バスには必ず真ん中に乗って手すりに掴まる。運転手が振り向いて、どうも横川さんと挨拶をするので、横川も応じる。腕時計を見て、時間だな、と思う。乗ってから三つ目のバス停で乗客が二十人前後になって、これが平日朝の一番の人数になる時間帯である。パンパン、と手のひらを叩き、ナスとトマトのキャラクターのエコバッグを掲げると、二十人前後がみんな、その方向に注目する。こういう時、横川は体育の授業を思い出してちょっと懐かしくなる。手を叩くとみんなが自分に振り向いてくれる。手を叩くのは、もしかしたらその懐かしさに知らず知らず自分が引っ張られてるのかもしれない、と考えて、天井を仰ぐ。つり革はどれも乗客の手から離れて揺れている。乗客はみんな横川を中心に集まって、胸ポケットや尻ポケット、鞄、手提げなんかから千円札を一枚取り出して、我先にと入れる。その日は小学生くらいの男の子が偶然ひとりで乗っていて、横川のエコバッグに少し困っている。横川も少し困った顔をする。が、いつも乗っている藍色のカーディガンのお婆ちゃんが男の子に千円をくれる。男の子ほっとする。安心のため息が漏れる。横川も、
「若松さん、なんだかすみません」と後ろ髪をかいて頭を下げる。
「いいえ、こういうときはお互い様ですから。ねぇ」と若松さん、男の子に振り向いて言う。男の子照れたように頷く。ふたりは降りるバス停が思いがけず一緒で、男の子遠慮して、お婆ちゃんの後から降りる。運転手にも深々とお辞儀をして、横川はいい心地でそれを見送る。
お陰さまで駅前のバス停についてからも、電車にはいい心地で乗れた。端の席に座ってから、わくわくした気持ちでマイバッグを覗くと、二万と三千円である。上下を整えてから財布にしまう。まだわくわくが覚めない。落ち着かず周囲を見渡すと、多少混雑しているおなじ車両の、斜め向こうの席に見知った制服の男の子がひとり、ぐっすりと寝ている。つい先月まで自分の勤務していたA学園の制服である。ただ、A学園に投稿するのだったら前の前の駅で降りているべきだと思う。一度記憶を調べてみたがそうである。男の子はぐっすりと寝ている。A学園の教頭は葛西というけれどもこれはうるさい男であるから、ちょっと不味いと思うし、それにも少し懐かしい気がする。次の駅で人が多少降りて落ち着いたのを期に、ちょっと横へ席を変える。ちょんちょんと肩をつつくと男の子眠たそうに起きる。訝しげな目で、なんですかあなた、と詰問するような声で言う。それには答えず、駅の掲示を指で知らせる。男の子あっ、と言い、参ったなぁ、と両膝を両手で掴む。聞けば陸上部の大会が一週間後で朝練があるのだと言う。自分は副部長であるから、これは示しがつかなくなると頭を抱える。ふたりとも兎に角駅へ降りる。横川少し考えてから提案する。タクシーで、これを使いなさい。と二万と三千円のうち、一掴みに四千円渡す。男の子が遠慮するのを待たずにアプリでタクシーを呼ぶ。運転手にこれで、と言い、男の子渋々乗るが、口元がさっきより少し落ち着いている。横川それを見てまた心地よくなる。教師も良かったが、こういうことも良いと思う。サイコロ様様だと思い、タクシーを呼んだロータリーから西に歩いて、すこし割高に思える値段表示の映画館により、値段表示にさらに割高な映画を見る。後々書くネットレビューを考えながら、席にもたれて心地よく眺め入る。