3章

 船はまた旋回した。今度は灯台の方へと船頭が漕ぐ。どくろが振り返る。船べりの黒い水面がやおら猩々色に染まる。その奥に中川君と私がお揃いの観葉植物を持って映っている。靄がかかった空気が灯台の光を辺り一面に滲ませている。櫂が猩々色の水面をかき壊す。飛沫が灯台の光に飲まれる。

 私と中川君それぞれの前で、ずしりと重いステーキが油を滴らせている。

 アニメ。金髪にそばかすの少年が星条旗の柄の服を着ている。彼は顔の両脇でフォークとナイフを構えて舌なめずりをする。次の瞬間にはステーキをぺろりと平らげて、おなかをぽんぽんと叩く。

 中川君がステーキを一切れ飲み込んでにんまりと笑う。照明を浴びて髪がうっすらと金色になる。

「どうかした? 加藤さん、食べないの?」

「えっ、ああ。なんでもない」

急いで肉を一切れ口に入れる。口の中に多量の肉汁がしみわたる。

 ふと窓ガラスを見た。無地だったはずのTシャツに星条旗の柄が浮きでている。

 あわてて視線を窓から自分のお腹の辺りに移した。私が着ているのは無地のTシャツだった。

 もう一度窓を見る。やっぱり私は星条旗の柄のTシャツを着ている。

「いい景色だね」

中川君がぽつりと言った。

「え? ああ、いい景色」

中川君はそれでにんまりと笑った。合わせて私も笑うと、窓の中の私の頬が盛り上がる。そばかすが染みるように現れる。焦点を奥にずらして、薄暗い中に明かりを灯す街並みを見ようとする。観覧車が回る。

 昼間のカフェで観た西海岸の夜景にも観覧車があった。中川君がこの店に来たがった理由がよく分かった。

 少しでも油断をすると、私の間抜けな、ぼーっと外を眺める姿にピントが合ってしまう。せめて視線だけでもと逸らすと、窓の中の中川君と目が合う。窓の中では中川君にもそばかすができている。私と違ってよく似合っている。窓の中の中川君の口が動く。

「加藤さん。ぼーっとしてどうしたの?」

間抜けな顔をしてどうしたの? ってことだとわかる。穴が開くほど、窓の中の中川君が私を見つめている。

「顔に何かついてる」

 中川君が窓の中から出てきてテーブルに座る私に入り込む。そばかすが似合ってないっていう意味だよと私の脳に響かせる。

「そんなの知ってる」

星条旗の柄のTシャツのことも言われる気がした。

「服、やっぱり私の趣味じゃないみたい。似合ってないんだよね」

「そんなことないよ」

隣に座っている中川君が私の方へと体を向けて否定した。

 嘘だ。嘘に決まってる。だって私の中に入った中川君が嘘だと言ってる。でも、と窓の中の私を、一抹の望みをかけて観ると、うすら笑いを浮かべている。ばかみたいだ。

 テーブルの上でステーキの脂が白く凝固し始めている。中川君はいつの間にか食べきっていて、暇そうに私のことを眺めている。

 今日集合としたときのこと

「いや、ぜんぜん。こういうのって、男が早く来て女の子を待つものだしさ!」

 急いでステーキを切り分ける。固くなっていて切り損なうたびに、中川君の鏡像がきゃっきゃと笑う。やっと切り終わって口に入れようとする。窓ガラスを見る。そばかすに星条旗Tシャツの私がフォークに分厚い、白い脂まみれの肉を差して口を大きく開けている。

 よだれを垂らして、肉を貪り食う怪物の絵本。その絵を見ていると顔が引きつってしまう。

私はフォークとナイフを静かに皿に置いた。

「もう、おなか一杯になっちゃった」

「そっか。じゃあ、行こうか」

中川君の待ち時間は最小ですんだ。それだけが私の救いだ。

 店を出たあたりで、後ろから誰かの視線を感じた。振り返ると誰もいない。

 船べりに当たる黒い水の底に私がいる。あれは紛れもなく私だ。とっさに飛び込んだ。とたんに力が抜けて、溺れてしまう。船頭が引き上げてくれた。

 帰りの電車で中川君が私に言った。

「加藤さんて、教室でもいつも一人でいるし、でも文化祭でなにやるか決める時とかたくさん発言してたし、それに結構スカート短いし、どんな人なのか気になってたんだよね」

 そういえば、私は昨日までどんな人間だったのだろう。昨日までのことを思い出そうとする。

教科書を忘れて隣の子に見せてもらった。

国語の授業を受けた。

外で鬼ごっこをした。

道に車が走っていた。

 昨日までの自分がどんな人だったかは思い出せない。昨日の自分や小学三年生の夏のある日の自分は思い出せるけれど。

「じゃあ、僕はここで降りるから。今日は加藤さんのことよく知れた気がする! また遊ぼうね」

 電車のドアが閉まってまた動き出す。電車が揺れると胃の中でステーキの脂も揺れる。それが胃の壁から順に体中に染みわたっていく。それが皮膚にまで達したとき、私はきっとあの金髪のステーキを頬ばる少年になってしまう。体がそれを受け付けない。胃液がこみ上げる。

 灯台の光が靄に当たり、船の周りが光で包まれている。どくろの目の光は灯台の白光にほとんどかき消されている。船頭の姿だけかろうじて見える。声が聞こえる。声も光と同じように反響している。どこから聞こえてくるかは分からない。

3章」への21件のフィードバック

  1. こっちこっちぃ〜! さっき、志保ちゃんって子が落ちたっぽいけど、だいじょうぶぅ〜?

  2. 溺れかけたのだから大丈夫なはずはないだろう。
    志保、灯台の下で休んだらどうだい。
    ……おや、休まなくていいのかい?
    君がそう言うのなら構わないが。

  3. 言葉数の多い彼に言われるがままここまで来たが、何か目的があって我々を呼んだのだろうね?
    目的のない行動なんて有るはずないのだから。

  4. 話聞いてたぁ〜? ボクは、志保ちゃんって子に会ってハグしたいだけなんだけどぉ〜! 船頭と根暗野郎はどっちでもいいよぉ〜。来たきゃ来ればいいし、来なきゃ来ないでいいからさぁ〜。

  5. それならばさっさとその「ハグ」とやらを済ませたまえ。
    済ませたならば、また果てを目指す航海に勤しもうではないか。

  6. 葛藤に溺れているから。ありたい姿とあるべき姿に溺れているから。今は引き上げたけどまたすぐに溺れそう。

  7. 溺れてちゃ、ハグできないんだけど・・・。それに志保ちゃんって子、びしょびしょじゃんかぁ〜! そんな状態でハグなんてムリだよぉ〜!!

  8. うぅ〜。ああもう〜! じゃあ、みんなまとめて来ればいいじゃんかぁ〜! 難しいこと考えるの、ボク大っ嫌いなんだよ!!

  9. さっきから「果て」に行くだの、「役割」がどうだの、難しいことばっか! その時、その場所で、自分が感じたとおりに動けばいいじゃんか! 難しいことばっか考えてたら、根暗野郎みたいになっちゃうよ!

  10. 小難しいことを考えているつもりはないがね。
    俺は物事を理論立てて考えているだけだ。

  11. ほらまた、難しいこと言った! ねぇねぇ志保ちゃん! 志保ちゃんは楽しいほうがいいよねぇ〜? 理論だとか、何かを望んで動くより、パァーっと楽しくて楽な方にいきたいよねぇ〜? なんで何も言ってくれないの?

  12. 何も言わないのは問いかけに対する否定の表れではないかね?
    全ての事物には因果があって然るべきなのだ。楽観だけではやっていけんよ。

  13. 望みと楽しいは両立しないの?
    志保の望みがかなって楽しくないのであれば楽しいを望んでいないんじゃないの。

  14. 志保は望みに辛いことは嫌、攻撃されるのも嫌があるから、楽しいを望んでいないんじゃないの。楽しいよりも嫌なことを避けることを望んでいるから。

  15. 嫌なことを避けるなら、やっぱり楽しいほうがいいってことだよね! なぁんだぁ〜! 怒ってたりして、損したなぁ〜。 みんなごめんねぇ〜!

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