4章

 周囲はいよいよ白い光に包まれた。船頭の姿もどくろも、船底もそれどころか自分の手さえも見えない。動いているのか止まっているのかさえわからない。

 中川君の言葉が私の頭の中でこだまする。

「加藤さんのこと色々知れた気がする」

私自身が今までの私のことを何もわからないのに、なんで中川君が知っているのだろう。

 白い陶器に溜まった汚い水に、私の口から肉片が黄色くなってドロドロと流れ出る。

 階段を上っていると音楽が聞こえてきた。直に電車が来るだろう。あるいは少し時間があるかもしれない。

 息を整えて、車窓を見る。私が映っている。頬にはそばかすがないし、Tシャツは無地だ。胸を撫で下ろす。

 中川君の誘いを断るべきだった。そうすれば、私の中に中川君の鏡像が入り込んだり、私がデブのブサイクの、あの金髪少年に一瞬だって変身することもなかったはずだ。今となってはもうなんで中川君の誘いに乗ったのかわからない。いや、最初からわかっていなかったのかもしれない。

 私の足元でレールと車輪がこすれ、ぶつかる。それに合わせて床が揺れる。住宅街を一つ通り越すとしばらく家がまばらになる。それからまた家が多くなりはじめると次の駅に着く。電車の床が右にスライドして、私は一瞬踏ん張らざるを得ない。それもちょっとすると慣れる。窓の外では、まただんだんと家が減っていく。これを何度か繰り返せば降車駅に着くだろう。そのあとには家はもっと少なくなって、今度は田んぼや畑へと景色が移ろっていくだろう。あるいはずっと、住宅街なのかもしれない。

 服の裾に黄色いものがへばりついている。手で触れる。粘性がある。その手を鼻に近づけて嗅いでみる。ツンとした匂いに顔をそむけてしまう。それが私の吐しゃ物であるという確証がない。そもそも、私は嘔吐なんてしただろうか。隣のおじさんがため息をつく。とても臭い空気が私の鼻に吸い込まれる。急いで口からその空気を出す。電車が揺れる。よろついて私とおじさんがぶつかる。おじさんの服にも黄色いねばねばついている。ああ、これはおじさんのものなんだ。そうでなければ、誰のものでもない。

 電車が降車駅に着いた。座っていた人の何人かが立ち上がる。ある人は荷物を持ち直す。またある人は体の向きを扉の方へと向ける。そういった人たちのために周りの人々は扉までの道を空ける。座席の前にいた人々は空いた席に座る。それから扉が開く。こうして車両が揺れる。人間の頭がたくさん、左右に揺れながら少しずつ前進していく。私の体もそれにあわせて動く。それは自分で動かしたのか、何ものかに動かされたのかわからないほど、自然に動く。改札まで列になっている。私は今階段に差し掛かっている。あるいはもう改札の前か電車を降りたところ。小さな子供が若い女性に手をつながれて歩いている。きっと手が暖かいだろうなと考えると、私の手も暖かくなる。自動改札がけたたましい音をあげる。スーツを着た人が立ち止まる。後ろにいる人がその人に激突してしまう。痛い。おなかと背中に衝撃を受ける。人々が一定のリズムで順々に改札を通り抜けていく。デニムパンツにくすんだ青色で無地のTシャツを着た、高校生くらいの女の子が改札に差し掛かる。その子が改札を通る。あるいは通らずに人込みの中に埋没する。

 その女の子が私だと気づいたのと私が改札を通り切るのは同時だった。足の裏には一歩ごとに振動がくわわる。足を動かすと手も前後に振られる。私は家に向かっているのだろう。

 足元に伝わる振動、吐息の暖かさ、つばを飲み込むときの喉の動き、それらすべてを私は必至で感じようとしている。少しでも気を抜くと、私はこの体から振り落とされてしまいそうだ。なんとか家までは耐えなくてはならない。

 船は真っ白な光の中、波に上下している。この白い光を出しているはずの灯台がどこにあるかわからない。木船にドスンとどくろがぶつかる。手元にだけ赤い影が落ちる。

4章」への29件のフィードバック

  1. 志保。君は灯台へ向かうことを本当に望んでいるのかい?
    ……何も言ってくれないのかね。

  2. えぇ〜。そんなにヤバいのぉ〜? ボクのほうは波が荒ぶる音なんて聞こえないんだけどぉ〜。

  3. 荒海の冷たさというものは実に心地良い。
    船頭さんよ、君もどうだい?
    それとも船頭が体を海に投げ出すのは御法度かね?

  4. そっち大変そうだねぇ〜。大丈夫なのぉ〜? 早くこっちに来なよぉ〜! こっちは大丈夫だからさぁ〜!

  5. 大きい波が来たな。
    君たち大丈夫かい?

    ……おや、志保が荒波に呑まれて行ってしまった。

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