5章

 白光に包まれた空間から投げ出された。海中は真っ暗闇だった。今度は力が抜けない。どくろが海中を覗いている。その目から猩々色の光線が一筋に重なって海の奥底へと続いていて家を照らし出している。海流は下へ下へと向かっている。懸命に泳いで、家を目指す。

 家に着いた。海流は私を中心に渦を巻いている。私に足の先から吸い込まれていく。着ぐるみを着るようにして。体の芯が満たされていく。そこに私は吸着される。着ぐるみがそれを着るべき人間に着られるときの感覚はきっとこんなだろう。

 玄関で靴を脱ぎながら喉に手を当ててごくりごくりと繰り返しつばを飲んでみる。それで喉の動きは分かるけれど、さっきとは決定的に違う。さっきはもっと、別の誰かの喉を触っているみたいだった。

 いつも通り廊下を歩きながら大きめの声で言う。

「ただいまー」

父と母の声は壁を一枚通してくる。

「おかえりー」

壁の向こうには居間がある。ざわめくような笑い声。

 テレビを見ているのだろう。そうならば二人はお酒を飲んでいる。夕飯もとっくに食べ終えている。いつものように。

 毎日その二人の間で麦茶を飲んだ。テレビの内容に笑ったり文句を言ったりした。

 居間の扉を勢いよく開けて、

「ただいま!」

と改めて言おう。学級委員が教室に入ってきて「ちゅーもーく!」とやるように。

両親がこちらへ向いて

「おかえり」

私の席に座らせてくれる。肩がとたんに軽くなった。

「デートどうだった?」

「うーん。なんか変な感じだった」

母と父は顔を見合わせて笑う。

 なんで笑うのだろう。全身がびくりとこわばる。

「楽しかったよ!」

と返事したほうが良かったかもしれない。母の表情をうかがう。

「志保は男の子と二人で遊ぶの初めてだもんね」

母の口角がゆるく持ち上がっている。眉はあまり動かず、目が少しだけ細まっている。

 小さな子供が初めて立ったのを見守るときの目。犬や猫がなにか人間的な行動をするときにそれを見る人たちの目。

 先生にあてられて一か八か出した答えがあっていた。そんなときのように全身の筋肉が弛緩する。

 父の眉山が少しだけ持ち上がる。

「そんな服もってたっけ」

「今日買ったの。中川君が似合うって言うから。これも初めて」

父の眉山がもっと上がって、目も真ん丸になって、笑った。

 曲がり角で通りかかる人の前に突然現れてワッと大きな声を出したあの時のあの人の顔。あの人は私がしたよりもずっと大きな声で色々なことをすごい速さでまくし立てた。

槍。背中とお腹にぴったりと突き付けられて、進んでも戻っても刺さる。私は槍の動きに意識を集中して、それに合わせて動くしかない。

「でも、断れなくて……」

父はまた口角を上げて笑った。

「そうか。あんまり無駄遣いしないようにな」

「はーい」

カバンの中でミニ観葉植物がゴロゴロする。さっきの父の顔がよぎる。これは父と母には見せないようにしよう。

 昔、飼っていたインコが死んで埋められると、私は毎日それを掘り返した。それは日に日に肉が削げ落ちていき、骨だけになり、最後には頭蓋骨だけが地面の穴にゴロゴロと転がっていた。自分の頭がひりひりした。自分が死んで燃やされたあとに残り続ける頭蓋骨を想像した。皮膚一枚挟んで頭蓋骨がある。生まれたときからずっと、この骨をかづいていく運命にある。必ず最後には頭蓋骨一つになる。

 部屋に戻ってカバンからミニ観葉植物を出す。

 中川君との一日が思い出される。アメリカっぽさを演じると、おしゃれに見えるならそれも悪くないかもしれない。女の子としての身の振り方に則ればそれでいいかもしれない。それに、そういう生き方を両親も望んでいる気がする。

 私が学級会で決まった出し物に文句を言っているのを聞いた父は

「いやならもっと最初から意見を出さなくちゃだめだよ。もう決まったんだから黙って従いなさい」

と厳しめの声で言った。

 父と母の口癖は「自分らしく生きなさい」だ。

 アメリカの真似をして、女の子としての役割に徹すれば、私の考えることも行動も、すべて中川君や両親に分かってしまうだろう。それはすごく、脳みそを見分されているみたいでぞわぞわする。

脱衣所に移動して、服に黄色い汚れが付いていることを思い出した。電車の中のおじさんの姿とその服に着いた汚れもよぎる。私の汚れだったか、おじさんの汚れだったか、判然としない。そこを思い出そうとすると砂嵐が起こってわからなくなる。

 頭を洗うときに目をつむる。つむっていると心臓がどきどきする。目をつむっている自分の背中が目に浮かぶ。誰かに見られている気がして、急いでシャワーで泡を流して周りを確認する。だれもいない。その代わりに、私の体はまたふわふわとした感覚に包まれた。中に人がいないのに動かなければならない着ぐるみはきっとこんな気分だろう。

 私がシャワーヘッドを手にもって周りを見回している。その私がどんどん小さくなっていく。また、暗黒の海へと引きずりこまれる。海面から顔を出すと、白光に包まれた海域で、船頭の船にいつの間にか乗っていた。

5章」への23件のフィードバック

  1. 志保も船頭も無事だネ。
    とはいえ無事と言うのが憚られるくらいにはずぶ濡れのようだが。

  2. もうこの際、濡れているだけで済むならいいよ・・・。荒れてる海は危ないって聞くしねぇ〜。

  3. 志保が戻ってきたから、引っ張り上げられた。もっと潜って行っていたら船に戻れなくなっていたよ。

  4. 荒れている海ほど魅力的なものはないだろう。
    それを「危ない」だなんて罰当たりだとは思わんかね。

  5. さぁ? ただ聞いたことあるってだけだからねぇ〜。あっ、船頭! 志保ちゃんを助けてくれてありがとう〜!

  6. よくわかんないけど、でも船に引き上げたんだから、やっぱり船頭が助けたことになんないのぉ〜? 根暗野郎はどう思う〜?

  7. 「海から出たい」、「船に戻りたい」という志保の強い意志がそうさせたのだろうか。
    初めて志保の思いを知ったよ、俺は。

  8. つまり志保の助かりたいという意志そのものが志保を助けたということさ。
    彼女自身が彼女を救い出したのだよ。

  9. 志保の意志でさえ君は汲み取れないのかね?
    やはり灯台に向かうべきではなかったようだ。

  10. ところで海は落ち着いたぁ〜? まぁ、志保ちゃんと船頭が大丈夫なら、落ち着いたんだろうけどさぁ〜。みんなはこっちに来てるってことであってるよねぇ〜? 波に流されて別のところに行ってないよねぇ〜?

  11. あっ、そうなんだぁ〜! じゃあ、このまま待ってればいいのかなぁ〜? 楽しみぃ〜!

  12. ……ふむ。
    ところで君。
    今我々の目の前に灯台が二つあるのだが、君はどちらの側にいるのかね?

  13. えっ、2つ・・・? 待って待って、ボクそんなのわかんないんだけど! っていうか、みんなの姿も見えてないんだけど!!

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