「__き君! はるき君!」
ババを引いてウゲッとなったのと全く同じタイミングで、ぼくを呼ぶ声に気がついた。振り返ると、学童のコーチが「お母さん来たよ〜」と言って手招きしている。
「え!」
カードを放り投げて立ち上がる。
「お母さん?!」
確かに、コーチの後ろ、玄関の下駄箱のすぐ横に、ダウンコートを着たお母さんが立っている。
「お母さんだ!」
「はるき、もう帰るの?」
「カード投げんなよ!」
「てかババ入ってるし」
「じゃあもうはるきの負けってことでよくね?」
「よし。はるきの負け!」
「はるきじゃーなー」
「負け犬じゃーなー」
好き勝手なことを言うやつらに「じゃーな!」と言い返してから、超スピードでランドセルに荷物を詰めて、超スピードで上着を着て、超スピードで玄関に走った。
「お母さん、なんで? なんでいるの?」
「なんでって、迎えに来たのよ」
「えー!」
「はるき君、いっつも一人で帰ってたもんね。よかったねぇ」
コーチがニコニコ笑いながら言う。
うん、と返そうとしたけど、口がうまく動かなくて、白い煙が一つ二つ漏れただけになった。
挨拶をして、学童を出る。
涼しい風が通りを吹き抜けて、熱いほっぺたに心地いい。でも、ぼくの二倍着込んでいるはずのお母さんは、ブルブルと震えてすごく寒そうだ。
「うう……もうすっかり冬本番ね。はるき、寒くない?」
「寒くないよ。むしろ暑いよ」
「えぇ〜……嘘でしょ〜……」
「嘘じゃないし。なんなら半袖でも平気だよ」
「ああ……お母さんの子どものころもいたわ、年がら年中半袖の男子……」
「ぼくのクラスにもいる!」
「真似しちゃだめよ……絶対にね」
ビュウ! と強い風が吹いて、お母さんは顔の半分以上をマフラーに突っ込んだ。
手を繋いでほしかったけど、お母さんの両手はコートのポケットに深々と仕舞われていて、こりゃ無理そうだ。
しばらくの間、無言で歩く。学童から帰るいつもの道は、いつもと全く同じ道のりだけど、いつもならいないお母さんが一緒だから、スニーカーに羽が生えちゃったみたいにちょっと歩きづらい。
「__はるき、急なんだけど……」
「ん?」
「お母さんね、再就職しようと思うの」
赤信号に捕まったところで、お母さんがそう言った。
「……さいしゅうしょくってなに?」
「もう一回、会社で働こうと思うの。……お父さんと結婚する前に働いてた会社が、今度の火事のニュースを見て、連絡をくれてね。これを機に戻ってこないかって言ってくれたのよ。……お父さんは、また店を建て直すから、やめてくれって言うんだけど……」
「ふ〜ん……」
「はるきは、どう思う? どうしてほしい?」
「え〜? お母さんの好きにしたらいいんじゃない?」
ぼくにはよくわかんないし、と心の中で付け足しつつ、ぼくは答えた。
「お母さん、ほんとはお店で働くの嫌なんでしょ。あの時言ってたじゃん」
「……聞いてたのね……」
「そりゃ聞こえてるよ。お母さん声でかいし。それに、お店を建て直すのって、すっごくお金と時間がかかるんでしょ。だったら、お母さんがさいしゅーしょく? する方が早いんじゃない。お父さんには主夫やってもらえばいいよ。料理できるんだし」
「…………」
お母さんの口から、ゆっくちゆっくり白い煙が溢れてくる。
「ほんとうに、いいの?」
「なにが?」
「だって……お母さんが会社で働き出したら、今までみたいに毎日お母さんのご飯は食べれなくなるし、朝はもっと忙しくなるし、それに……今日みたいに、お迎えにも来てあげられないのよ……」
「お迎えは今までも来たことないじゃん。ずっと一人で帰ってたのが、これからも続くだけだよ。あ、いや、むしろ、お父さんがお迎えに来るようになるのかな? 忙しいのだって、夜から朝に変わるだけ。ご飯は……まぁ、そりゃ、お母さんの唐揚げは毎日でも食べたいけど……でも、お母さんの好きにしたらいいよ……」
尻すぼみになっていくぼくの言葉を、お母さんは__そう、まるで、ちょっとしかない大好きなお菓子を一つ一つ大事に食べるみたいな顔で、じっと聞いていた。
信号が青になる。
歩き出そうとして、ふわふわしたものに手を握られた。お母さんの手袋だ。
手を繋いで、横断歩道を渡る。
「……時代ってのは、ちゃんと変わっていくものなのね」
「……お母さん、なんかおばあちゃんみたいなこと言ってる……」
言ってから、やばい、怒られるかな? と思ったけど、握られた手が離れていく気配はない。見上げると、優しい顔のお母さんと目が合った。
「はるきも大人になればわかるわよ。私が子どもの頃は、母親なんて家に縛りつけられてるのが当たり前で、一回結婚したらできるのなんてせいぜいパートだけだったもの……再就職なんて考えたこともなかった」
変わるものね、と、もう一度噛み締めるように言って、お母さんはにっこり笑った__ぼくが最後にこんなお母さんを見たのは、いったいいつのことだろう。そもそも、お母さんとこんなにちゃんと話したの自体、いつ以来だろう。
監視カメラの映像越しじゃない、確かにぼくの手を握ってぼくの顔を見てくれる、大好きなお母さん。
__あの火事が、あのめちゃくちゃな夜が、ぼくのお母さんを返してくれたんだ。
ぼくもお母さんの手を強く握った。手袋越しでもお互いの指の形がわかるぐらい強く握った。
「ぼくも、大人になる頃には、時代ってやつが変わってるのかなぁ?」
「そうよ。きっとそう。想像もできないような世の中になってるわ」
「車が空を飛んだりする?」
「ええ。電車だって飛ぶわよ」
「え! すごい!」
思わず、その場でジャンプ。
「楽しみ! 楽しみ! はやく大人になりたい!」
お母さんがケタケタと笑う。
スニーカーに生えた羽根は、もう完全にぼくの味方だ。
今なら、星空の中だって駆けていけそうな気がする。