酔いの口から 第5章

21:30

 頭からつま先まで体のどこにも泡が残ってないのを確認してから、大急ぎで湯船に入った。

 肩までといわず、口まで全部お湯につかる。冷えて硬くなっていた体の芯が、茹で上がったパスタみたいに柔らかく伸びていくこの感じ__う〜ん、あったかい。

 冬の脱衣所はサイテーだけど、冬のお風呂はサイコーだ。

 お湯をすくって顔にかける。ついでに髪にも。今日は、なんだかすごくたくさんのことがあったような気がする。実際には、宿題して、ちょっとお店の様子も見て、今はお風呂に入ってる、なんてことない普通の1日だったんだけど。

 こんなに疲れてるのは、きっと、さっきのコンロ事件にびっくりしすぎたせいだ。バイトのお姉さんが電話に出てくれたおかげで、悪いことはなにも起きなかったけれど……ああいうのは、心臓に悪い。「じゅみょうがちぢむ」ってやつだ。

 じゅみょうが……どうしよう? 

 これで、本当に長生きできなくなったら……。

 急に、お湯の温度が下がった。いや、違う。下がったのはぼくの体温だ。どうしよう。長生きできなくなったら。長生きできないってことは、つまり……うまく想像できないけど、大人になれないってことだ。

 大人に……。

 今まで当たり前みたいに描いていた「将来の夢」とか「結婚するならどんな人がいい」とか、そういう朝方のモヤみたいなたくさんの夢々が、急にリアルな重みを持ってくずれていく。

 そんで、代わりに、今日のお客さんたちの姿が、頭の中をメリーゴーラウンドみたいにぐるぐる回り始めた。

 酔っ払う人、騒ぐ人、キレる人、喧嘩する人、ギター弾く人、吐く人、泣く人、説教する人、その他、迷惑なことを平気でする人、えとせとら、えとせとら……。

 あれ__大人になれなくても、別にいいんじゃないか?

 むしろ、大人になるのって、すごくカッコ悪いことなんじゃないか?

 うん。うん。暖かいお湯の感覚がじわじわ戻ってくる。なんか、そんな気がしてきたぞ。お父さんはよく子どもっぽいことは悪いことみたいに言うけれど、あんなカッコ悪い大人より、ぼくたち子どもの方が、よっぽどいい世界に生きてるに決まってる。お母さんだって、酔っ払うと口癖みたいに「昔に戻りたい」って言うし……うん。うん。じゅみょうが短くなっても、別にいいや。

 大人になったって、いいことなんかきっと一つもないや。

 そうホッとしてため息をついた時、ふと、外から大きな音が聞こえてきた。玄関の扉を開ける音だ。それがすごく乱暴で、一瞬泥棒かと思ったけれど、すぐにお母さんの声も聞こえてきたから、ぼくはもう一回ホッとして大きな声で返事した。

「なーにー? ぼくおふろだよー!」

 お母さんは声だけは静かになって、ドッタンバッタンお風呂場に近づいてくる。

 壊れちゃうんじゃないかってぐらいの勢いでドアが開いて、

「なんでこのタイミングでお風呂入ってるのよ!」

「夜だからだよ……」

「いいから早く出なさい! 出て、服着て、逃げるのよ!」

と、お母さんは赤ちゃんにするみたいにぼくの両脇に手を入れて、無理やり湯船引き上げてくる。

「なに⁈ なんで⁈ 寒いッ!」

「逆! 熱いのよ! 火事なのよ!」

「……火事⁉︎」

酔いの口から 第5章」への121件のフィードバック

  1. 火の手が早すぎる……! 逃げた方が身の為ですね……!(辻元さん担ぎ上げてお店の入り口開け放つ)
    皆さん、早く! 逃げて下さい……!!

  2. いやいや、こちらこそ寝ていたとこ運んで貰って、どうもありがとうございました……。こりゃなんかお礼しないとな……そうだ! 兄ちゃん、音楽は興味あるか?

  3. 私は現役で美大に受かったからあんたみたいにはなってなかったよ。でも大学では自分よりうまい人も多いし、そもそも自分が描きたい絵は学べないし、地元の友人たちはもっといろいろ学んでたり結婚してたり働いてたり様々でさ……。

  4. ママ火事に巻き込まれそうになっちゃったから帰るの遅れるね?ごめんねー、ばぁばのとこで今日寝られる?うん、、うん、、ママは大丈夫だよー、

  5. そうか、いやなに恥じることはない。人は十人十色だからなぁ。
    それで我は「ヌエ」ってバンドで活動しているんだが、今回のお礼に兄ちゃんを特等席で招待したいんだがどうだ?

  6. 私もまだ24歳だからうまくは言えないけどさ。大学にも通ってないような20歳なんて、まだまだ子供だよ。だから何でもできるよ。
    って、これは20のときの私に言ってあげたいことだけど。

  7. 名刺ありがとうございます。
    凄い継続力ですね……! 一種の才能ですね……そう考えると、皆さん今回何もなくて本当に、良かったです……亡くなったら、もう終わりですから、そこで。才能を開花する為に継続する機会も、大人とは何か考える機会も、誰かと出会う機会も一生失われる……本当に、生きていて、良かった

コメントを残す