酔いの口から エピローグ

2025年 1月16日

17:30

「はるきんち燃えたってマジ?」

「うん……マジだよ」

 えー! と周りにいたやつらが一斉に叫んだ。

 とんでもない声量に、部屋中の視線がここに集まってくる。慌ててシーッ! シーッ! とお互いに言い合って、ダンゴムシみたいに部屋の隅っこに固まった。

 火曜水曜はずっと家にいたから、学童に来るのは、先週の金曜日以来。ぼくんちが燃えたという話はここにもきちんと広まっていたようで、自由時間になるなり、ぼくは大勢のインタビュアーに捕まってしまった(もちろん、学校でも登校してすぐに同じような目に遭っている)。

「じゃあ、今どこに住んでんの?」

「野宿? 野宿?」

「野宿じゃねーし。おじいちゃんの家だよ」

「へ〜」

「教科書とか全部燃えたの?」

「うん。宿題も燃えた……ゲームも」

「え〜……」

「かわいそ……」

「…………」

「…………」

 ちょっとだけ気まずい無言。

 「別に気ぃ遣わなくていいよ」と言おうとしたとき、急に、五年生のりょうたが立ち上がって、

「よし、じゃあ……ババ抜きしようぜ!」

と言った。すぐに、他のやつらも「賛成!」「賛成!」とみんな立ち上がって、次々オモチャ置き場に駆けていく。気まずい空気も、あっという間に散っていく。

 りょうたの方を見ると、「心配すんな」とでも言いたげな顔で、ぼくのことを見ていた__本当にかっこいいやつ!

 りょうたと肩を組んで、ぼくらもみんなのいるテーブルに向かう。

酔いの口から 第5章

21:30

 頭からつま先まで体のどこにも泡が残ってないのを確認してから、大急ぎで湯船に入った。

 肩までといわず、口まで全部お湯につかる。冷えて硬くなっていた体の芯が、茹で上がったパスタみたいに柔らかく伸びていくこの感じ__う〜ん、あったかい。

 冬の脱衣所はサイテーだけど、冬のお風呂はサイコーだ。

 お湯をすくって顔にかける。ついでに髪にも。今日は、なんだかすごくたくさんのことがあったような気がする。実際には、宿題して、ちょっとお店の様子も見て、今はお風呂に入ってる、なんてことない普通の1日だったんだけど。

 こんなに疲れてるのは、きっと、さっきのコンロ事件にびっくりしすぎたせいだ。バイトのお姉さんが電話に出てくれたおかげで、悪いことはなにも起きなかったけれど……ああいうのは、心臓に悪い。「じゅみょうがちぢむ」ってやつだ。

 じゅみょうが……どうしよう? 

 これで、本当に長生きできなくなったら……。

 急に、お湯の温度が下がった。いや、違う。下がったのはぼくの体温だ。どうしよう。長生きできなくなったら。長生きできないってことは、つまり……うまく想像できないけど、大人になれないってことだ。

 大人に……。

 今まで当たり前みたいに描いていた「将来の夢」とか「結婚するならどんな人がいい」とか、そういう朝方のモヤみたいなたくさんの夢々が、急にリアルな重みを持ってくずれていく。

 そんで、代わりに、今日のお客さんたちの姿が、頭の中をメリーゴーラウンドみたいにぐるぐる回り始めた。

 酔っ払う人、騒ぐ人、キレる人、喧嘩する人、ギター弾く人、吐く人、泣く人、説教する人、その他、迷惑なことを平気でする人、えとせとら、えとせとら……。

 あれ__大人になれなくても、別にいいんじゃないか?

 むしろ、大人になるのって、すごくカッコ悪いことなんじゃないか?

 うん。うん。暖かいお湯の感覚がじわじわ戻ってくる。なんか、そんな気がしてきたぞ。お父さんはよく子どもっぽいことは悪いことみたいに言うけれど、あんなカッコ悪い大人より、ぼくたち子どもの方が、よっぽどいい世界に生きてるに決まってる。お母さんだって、酔っ払うと口癖みたいに「昔に戻りたい」って言うし……うん。うん。じゅみょうが短くなっても、別にいいや。

 大人になったって、いいことなんかきっと一つもないや。

 そうホッとしてため息をついた時、ふと、外から大きな音が聞こえてきた。玄関の扉を開ける音だ。それがすごく乱暴で、一瞬泥棒かと思ったけれど、すぐにお母さんの声も聞こえてきたから、ぼくはもう一回ホッとして大きな声で返事した。

「なーにー? ぼくおふろだよー!」

 お母さんは声だけは静かになって、ドッタンバッタンお風呂場に近づいてくる。

 壊れちゃうんじゃないかってぐらいの勢いでドアが開いて、

「なんでこのタイミングでお風呂入ってるのよ!」

「夜だからだよ……」

「いいから早く出なさい! 出て、服着て、逃げるのよ!」

と、お母さんは赤ちゃんにするみたいにぼくの両脇に手を入れて、無理やり湯船引き上げてくる。

「なに⁈ なんで⁈ 寒いッ!」

「逆! 熱いのよ! 火事なのよ!」

「……火事⁉︎」

酔いの口から 第4章

21:15

 なんだか、不思議なことになってきた。

 さっきまであんなに仲の悪そうだったお客さんたちがみんなカウンターの近くに集まって、真面目な顔でぶつぶつ話し合っている。並ぶグラスの数もどんどん増えて、顔もすっかり赤らんできて、それなのに、目だけは妙に据わっている。

 これは……あれだ。

 酔っ払いの第二形態、「お説教モンスター」だ!

 大人って生き物は、お酒を飲むと、まずテンションが上がる。そして、テンションが上がりきると、今度は、「説教したがり」状態になる。仕事のこととか、人生のこととか、とにかく何かをツラツラ語りたくなるらしい。特に、年下相手に。そんで、心ゆくまで語った後は、イビキかいて寝たり、吐いたりする(すっごい迷惑だ)。

 ぼくの一番身近な酔っ払いこと、お父さんも、普段はぼくと話すことなんてほとんどないくせに、お酒が入ると急に口が回るようになる。学校のこととか学童のこととかあれこれ聞いてきて、「あ〜、やっぱりお前はまだ子どもだな〜」って顔で、どうでもいいお説教を長々とぼくに浴びせてくるんだ(次の日の朝になったら、自分がお母さんに説教されるくせに)。しかも、酔っ払うたびに毎回同じ話しかしない。酔っ払っている最中のことを覚えてないから。

 「お説教モンスター」っていうのは本当に嫌な生き物だ。

 あのお客さんたちも、みんな、お酒の飲み過ぎで「お説教モンスター」になっちゃったんだ。

 どうしよう……と一瞬だけ考えて、すぐにやめる。

 うん……別にいっか。

 ぼくがお説教されるわけじゃないし。むしろ、みんな静かになったおかげで、お母さんの顔も少し穏やかになってるし。バイトのお姉さんも、もう店中をうろうろ歩き回ったりしてないし。

 うん。全然問題ないじゃん。

 それよりも、いつの間にかもう9時を過ぎていることの方が問題だ。いつまでもお店を見てないで、そろそろお風呂に入って寝ないと。明日はちょっと早めに登校して、ドリルの丸つけしなきゃなんだから、夜更かしなんてしてる場合じゃない。

 そう思って、監視カメラの映像を閉じようとした時、ふと、厨房の様子が目に飛び込んできた。

 コンロの火が、つけっぱなしだ。

 __ドッと冷や汗が噴き出してくる。九月の防災の日に、学校に消防士さんがきた時の記憶が、急に映画みたいに浮かび上がってくる。

「ガスコンロが原因で起こる火事のほとんどは、コンロの火を消し忘れることで起こります」って__。

 どうしよう。どうしよう。全身に鳥肌が立つ。このままじゃ、お店が火事になっちゃう。お父さんとお母さんの大事なお店が燃えてしまう。というか、2階にいるぼくも、火事で燃えちゃう。

 二人とも、今は厨房の外でお客さんたちの相手をしてる。カウンター席に座ってるお客さんたちからあのコンロはちょうど見えない位置にあるし、そもそも全員話すのに夢中で、気づくのは絶対に無理だろう。

 お父さんとお母さんは厨房にいない。「お説教モンスター」たちも使えない。

 あとは、あとは……

 そうだ、バイトのお姉さん!

 お姉さんを探しに、六個の監視カメラを全部チェックする。でも、バイトのお姉さんはどこにも映ってない。

 ってことは、お姉さんは今、カメラの唯一届かない場所__厨房の奥の、冷蔵庫とかが置いてある、従業員控室にいるはずだ。

 控室には、緊急連絡用の電話機があったはず。ぼくは勢いよく立ち上がって(勢いよすぎて、椅子が思いっきり倒れてしまったけど、無視!)、リビングの電話を手に取った。壁に貼ってあるお母さんの「おみせにでんわしたいときはこれ↓(ほんとうにあぶないときしかかけちゃダメ!)」というメモの通り、登録してある番号を選んで、通話ボタンをギュッと押した__どうか、電話に出てくれますように!

酔いの口から 第3章

21:00

 蛇口をしめて、手をピッピと払う。鏡に映る顔はなんだか薄暗い。

 タオルを無視してそのままパソコンの前に戻ると、お客さんの一人が席で吐いていた。

 えぇ……。

 おじいさんとバイトのお姉さんが大人しくなって、やっと安心してトイレに行ったのに……なにがあったんだろう。

 居酒屋だから、吐く人自体は別に珍しくないけど、トイレ以外で吐かれるのはかなり迷惑だ。案の定、お母さんが小さく震えて怒ってる。

 吐いてるのは、大学生のグループのうちの一人。本人だけはなんだかスッキリした顔をしてるけど(酔っ払いはいつもこうだ)、赤い髪のお客さんが自分の服を指差してめちゃくちゃ怒ってる。そんで、同じグループのお姉さんが、バイトさんと一緒にゲロを片付けてくれている。

 なんで吐いちゃったんだろう?

 あのお客さんたちは新成人だったはず。ということは、もしかして、初めてのお酒で無理をしてしまった……とか?

 ぼくは居酒屋の子だし、クラスや学童のやつらよりも吐いてる人を見た回数は絶対に多い。なんなら、お父さんだって休みの日には飲みすぎてゲロゲロしてるから、ゲロはぼくにとってすごく身近な存在だ(なんて嫌なご近所さんなんだろう!)。

 それでも、やっぱり、人が吐くのなんて見ていて楽しいもんじゃない。

 臭いしダサいしカッコ悪い。

 お母さんも言ってた。「自分の限界を超えて飲むのは馬鹿のすることだ」って(お父さんは、亀みたいに首を引っ込めながら「はい。はい」って頷いてた)。

 ぼくだっていつか大人になったら、きっとお酒を飲むわけだけど、あんな馬鹿みたいな飲み方は絶対にしたくない。

 ぼくは、もっと、はーどぼいるどでしりあるでキューティーな……いやキューティーはかわいいって意味か……とにかく、かっこよくお酒を飲める大人になるんだ。バーでシュッとグラスを遠くの席まですべらせて、「隣のお客様からです」って言えるような、そんな……。

 そうだ! ちょうどいいところに、そんな感じの大人のお客さんたちがいる。カウンターの端っこで、静かにお猪口を傾けてるお客さん。なぜか、隣に大学生グループのお客さんが来てるけど……そのさらに隣の女性のお客さんも、なかなか大人っぽい。見ていて安心できる感じがある。間違えても、楽器を急に弾きだしたり、ゲロ吐いたりなんてしないだろう。

 厨房の天井についているカメラをちょっと動かして、三人のお客さんをアップにした__

酔いの口から 第2章

20:45

 金髪のお客さんが勢いよく立ち上がって、他のお客さんがびっくりした顔になった。

 なんだろう、なにか喧嘩でもしてるのかな……。

 嫌な予感がして、厨房の方のカメラをアップにした。お父さんはいつも通り淡々と料理していて、その横では、お母さんも鍋を作っている。口はうっすら笑ってるけど、目はじっとコンロの火を睨みつけてる。

 首の後ろが急に寒くなってきて、亀みたいにギュッと肩をすぼめる。

 ……お母さん、キレそう……。

 そりゃそうだ。今日はいつにも増して変なお客さんが多い。急に立ち上がる人、怒ってる人、しょっちゅうお母さんたちを呼びつける人(多分だけど、クレーマーってやつだと思う)、知らん顔してお酒を飲み続ける人……さっきから、バイトのお姉さんがアリみたいに店中をウロウロしていて、かわいそうだ。

 何より、個室のお爺さんがひどい。お店でギターを弾く人なんて初めて見た。監視カメラ越しには音もないのに、こっちまで耳を塞ぎたくなってくる。お母さんとバイトさんが何回か注意しに行ってるけど、ちっとも聞いてないっぽいし、それどころか、そのうち机の上に乗り上げそうなくらいどんどん盛り上がってるのがわかる。

 もしお母さんがキレるとしたら、99.9999パーセントはこのお爺さんのせいになるんじゃないかな?

 お母さんがキレるのはまずい。ぼくが怒られてるんじゃなくても、なんかまずい。

 __お爺さん、これ以上暴れないでよ!

 個室の映像を、ぼくも睨みつける__

酔いの口から 第1章

2025年1月13日

20:30 

 くるくると調子よく回っていたはずの赤エンピツが勢いよく手から飛んでいって、カツンと床に落ちた。

 拾い上げてみると、打ちどころが悪かったらしく、芯が根本から綺麗に折れてしまっている。これじゃ、丸つけができない。

 激萎え……。

 思わず、お母さんみたいなため息が出る。学童の友達(5年生で、年上で、超かっこよくて、ゲームが上手い。頭もいい。運動神経もいい)がやっているのを見て、ぼくもこっそり練習しだしたエンピツ回し。一ヶ月ぐらいやり続けて、最近はやっとうまく回せるようになってきたけど、まだまだ安定感が足りてない。あいつみたいに人前で披露するためには、もっともっと練習が必要だ。

 __とりあえず、削り直そう。丸つけがまだ途中だ。床に放りっぱなしのランドセルを開けて、筆箱を取り出した。パカッと……あれ、ない。裏側も開いてみる。こっち側にもない。どこ行った。ランドセルから教科書を全部出して底を見ても、ない。全然ない。机の上にも、引き出しにも、もちろんない。

 「あれ、」と首をひねるのと同時に、ぼ〜んやり金曜日の記憶が蘇ってくる。たしか、休み時間、教室のゴミ箱の上でエンピツを削ってて……途中でチャイムが鳴って先生が来ちゃったから、慌てて席に戻って……その時、あのエンピツ削り、筆箱に戻さずに机に突っ込んだような……そんで、それを取り出して筆箱に戻した記憶は、全然ないような……。

「…………」

 激萎え。超・超激萎え。

 __まぁいいや。丸つけだけだし、あと数問だし、明日の朝学校でやろっ。

 机の上のドリルを閉じて、床に散乱した教科書もちゃんとまとめて、全部ランドセルにしまい直す。

 時計を見ると、まだ八時半。寝るにはちょっと早すぎる。とはいえ、お母さんとお父さんはどうせ今日も0時まで帰ってこないし、好きなテレビも宿題をやっている間に終わっちゃってるし、やることがない。暇だ。

 ユーチューブでも見るか、と、リビングのパソコンの前に座ったところで、ふと、お母さんがこんなことを言っていたのを思い出す。

 

「店のカメラをねぇ、新調したの」

「しんちょーってなに?」

「新しくしたってこと。前のはおじいちゃんの代から使ってた古いカメラだったから、映像がガビガビで、見にくかったでしょ。だから、思いきって変えたのよ。お高かったけどね、すっごく綺麗に映るようになったの。寂しくなったらそれを見るのよ」

 

 ぼくんちの一階は居酒屋だ。そして、お父さんとお母さんはそこの店員さん。お店は遅い時間までやってるから、ぼくは毎日、学童から帰ってきたあとは寝るまで一人でいなきゃいけない。幼稚園の頃はおばあちゃんが一緒に留守番してくれたけど、おばあちゃんは二年前に死んでしまった。

 そこで、お母さんが、家のパソコンから店の監視カメラの映像を見れるようにしてくれた。

 好きな時に見ていいよって。

 一人ぼっちはさみしい。今日みたいに寒い夜はもっと嫌だ。だけど、お父さんとお母さんが一生懸命仕事しているのを見たら、少しだけ元気が戻ってくる。おばあちゃんが死んじゃってすぐの頃は、毎日何時間もパソコンの前に座って映像を眺めていた。

 今は三年生になって、留守番をさみしいと思うことも減って、最近はあまり見ていなかったけど……久しぶりに、見てみようかな。

 お店にある監視カメラは、全部で六つ。レジ前と、カウンター席と、テーブル席と、三個ある個室に一つずつ。お母さんたちは、大体いつもカウンター席のカメラに後ろ向きで写ってる(つまり、カウンターの中の厨房にいるってこと)。今日は、バイトのお姉さんも一緒だ。

 お母さんの言うとおり、画質がかなりよくなっている。お客さん一人一人の表情まで見えるぐらい。今日のお客さんは__あ、常連の派手なお爺さんが個室にいる。カウンターにも、見覚えのあるお客さんが何人か座ってるな。あとは、テーブル席に、お兄さんお姉さんのグループが一組。……もしかして、あれが、今朝お父さんの言ってた、「新成人のお客さんの予約が入ってる」ってやつかもしれない。

 新成人。つまり、今日、成人式をした人たちってことだ。

 ぼくはまだ八歳だから、成人するには……あと十年もある。それに、成人するのは十八歳だけど、成人式をやるのは二十歳のときらしいから、あのお兄さんたちに追いつくには、あと十二年も必要ってことだ。ぼくが生きてきた時間よりももっともっと長い時間が。

 想像がつかなくて、少しドキドキしてくる。

 __成人になるって、どんな気持ちなんだろう。

 学校は、高校じゃなくて……きっと大学生だよね。大学って楽しいのかな。宿題はむずかしいのかな。お酒はおいしい? タバコも吸ったことある? エンピツは上手に回せる? ひとりでも寂しくない? ぼくも成人する頃には、もう留守番しなくてよくて、お母さんたちと一緒に働ける?

 ズーム機能を使って、テーブル席のお客さんをアップにしてみる……