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佐藤(サトウ)
私って誰? ─対岸─ 対岸の火事はいつの世にも大きいほどおもしろい。 ──高橋和巳『邪宗門』 あなたは、目の前で起こった出来事を、ただ見ていた。その出来事は、本当の意味で、まるで夢のような出来事だった。あなたには、その出来事の只中に参加する資格も、理由も、意思も無かった。 そして、眼前の摩訶不思議な出来事が終わった事で、あなたにはその場所にいる目的すらも無くなった。あなたにはこんなところに居る必要はもう何も無い。自分自身の日常に戻ろう。そう思ったあなたは、次の瞬間には群衆の波に呑まれていた。 あなたは忘れていた。あなたが今現在居る場所は、大量の人間が集まる「渋谷」という名の街である事を。特に、今日はその渋谷にいつもより人の押し寄せてしまう日だ。ある程度は覚悟していたものの、群衆の勢いはあなたが想定していたよりもずっと大きかった。 そのとてつもない勢いに、あなたは意識が途切れてしまいそうになっていた。いっそのこと、途切れた方が良いかもしれない……。人々に押し潰されながら、あなたはぼんやりと思った。 何とか人の洪水から抜け出す事に成功したあなたは、座る事のできる店を探した。こんなに人がいるのだから、空席があるとは思えないが……。半ば諦めながらも、あなたは店を探した。 すると、あなたは、なんと席を見つける事に成功した。渋谷に立ち並ぶビルディングの一つに入っている、昔ながらの喫茶店を模した現代の喫茶店である。こんな場所に空席があるとは。今のあなたにとって、この状況はあまりにも僥倖である。 あなたは誰にもその席を奪われないように、急いで店に入った。そして、店員に一名である事を伝え、席に着いて呼吸を整える。 その時に、微かにではあるが、あなたは異臭を感じた。およそ喫茶店で香るような臭いではない。出所を探るために辺りを確認すると、隣にホームレスと思しき男性が座っているのを発見した。臭いの出所は、この五十代ほどのホームレスに違いないだろう。 あなたは直感した。このホームレスの隣であったために席が空いていたのだ、と。多くの人間にとって、ホームレスの隣は座りたくない場所なのだろう。その心情は、理解できなくもない。しかし、生まれつき嗅覚の弱いあなたは、そんな事を気にする性質ではなかった。 あなたはメニューを見て、しばし迷う。やがてあなたは店員を呼び、税込み六〇〇円のクリームソーダを一つ注文した。店員は件のホームレスを一瞥したが、特に何も言わず、厨房にあなたの注文を伝えに行った。 クリームソーダを待つ間に、あなたは先程の出来事を回想した。凄いものを見た……。あなたはあの出来事の全てを理解していたわけではないものの、そのように感じる事はできていた。同時に、あのような出来事に立ち会える事は、人生でもう二度と無いのだろうとも感じていた。あなたにとっては、それだけ衝撃的な出来事だったのである。現実だったのかどうかも、正直言って怪しいくらいの出来事であった。実は白昼夢だったのだ……そう誰かに言われたとしても、あなたは納得したかもしれない。 あの後、彼はどうなったのだろうか? 周りの人達はどうしたのだろうか? 疑問は尽きないが、あなたにはそれを目撃する事はできない。残念ながら、世界のありとあらゆる事象は一期一会なのである。 先程あなたの注文を聞いた店員とは違う店員が、あなたの選んだクリームソーダを運んできた。あなたは軽く礼を言い、置かれたストローを使って飲む。優しいメロン風味の香料と程良い炭酸、まろやかなバニラアイスが、あなたの例の出来事を見て興奮している心を癒していく。あなたは懐かしい味だと感じ、微笑んだ。冷静に考えると、あなたの子供時代にはこのようなクリームソーダは流行っていなかったので、あなたが懐かしさを感じるのはおかしいのだが……。この際、あなたにとってはどうでもいい事だ。体験していないノスタルジアを感じる事は特段珍しい現象ではなく、多くの人が経験している事である。 あなたはもう一度目の前のクリームソーダを飲む。やはり美味しい。またいつか渋谷を訪れた時にここに来てもいいかもしれないなと、あなたは思った。その時にこの喫茶店が残っていればいいのだが。 あなたは持っていたリュックを開け、その中に入っていたタブレットを確認する。リュックは群衆によってもみくちゃにされ、かなり汚れてしまっていた。だが、タブレット自体は無事であったようだ。あなたは安堵する。このタブレットはあなたにとって非常に大切な商売道具だ。壊れてしまっては、流石のあなたも困っていただろう。しかし、もしタブレットが群集の波のせいで壊されていたとしても、彼らを恨むのは筋違いだと言える。今日という日に、この「渋谷」という大都会に、大切な商売道具を持ってきたあなたが悪いと言わざるを得ない。今この時、渋谷は悪鬼の蔓延る場所になっているのだ。 あなたはクリームソーダの位置を少しずらし、テーブルの上にタブレットを置いて起動する。そして、テキストエディタを立ち上げる数秒の間に、喫茶店の壁へと目を遣った。そこには「混雑時は、一時間程度で退席願います。」と書かれた紙が貼られていた。こういった時期の店ならどこでもおこなわれる当然の配慮だ。一時間もあれば草稿くらいならまとめられるだろうと考えたあなたは、タブレットの画面に視線を移した。 あなたは、観察した何らかの対象を文章によって記述し、それを公衆に発表する事で僅かな日銭を稼いでいる。そんな仕事に頼っている日々の暮らしは、当然ながら決して楽なものではない。あなたが敢えて今日に渋谷という街に出向いたのも、明日以降の暮らしを少しでも楽にするためだったのである。 あなたは立ち上がった白紙の文書ファイルを目の前にしながら、逡巡していた。文字を打とうとしてキーボードに指を近づけるが、何も打たずに手を戻す。あなたはその行為を何度も繰り返していた。こうしている間にも退店のリミットは着々と迫っている。あなたは早急に何かを書かねばならない。 あなたが文章を書き進められない原因は、先程見た例の出来事である。 あなたは本来、今日という日に渋谷に居る人々の様々な営みを諧謔的に書き記した物を公表し、幾らかの金銭を得ようとしていた。あなたにとっては、その程度の軽い企みのつもりで来ていたのだ。 しかし、あなたは、あの出来事を見てしまった。あなたは、文章によって表現する事が困難な例の出来事を目に焼き付けてしまったのである。あなたは、あの時に起きた出来事を書こうかどうかをずっと迷い続けていたのだ。 あなたは、あの出来事を書いても、きっと誰も信じてはくれないだろうと思っている。それならば、書くのは無駄になってしまうのではないだろうか? しかし、文章に残しておく事はいいのではないか? あなたはそう思っていた。そもそも、あなたの書く文章など、この世界の誰も読んではいないのだ。それならば、好き勝手に書き殴ってもいいのではないだろうか。きっと問題なく金は振り込まれる筈だ。 だが、あなたはこうも思っていた。文章であの出来事を記述する事は、あの出来事に参加してしまう事にならないだろうか、と。あの時、あなたは傍観者でしかなかった。そんな存在が、あの出来事をさも関係者のように書いてもいいのだろうか? 迷いながらも、あなたの心の一部では、別に構わないだろうと冷静に考えていた。あの出来事を文章に書き起こす事に、誰かの許可を取る必要などは無い。それは当たり前の事だ。全ての人間に対して平等に、物事を記述する自由は与えられるのだ。何も問題は無い。 しかし、あの出来事は、あなたにとって対岸で起こった出来事だ。まったく関係のない出来事、遥か遠くで起きていた出来事なのである。それを書くという事は、現地に行かず炬燵でぬくぬくとしながら記事を書くルポライターのような真似をする事にならないだろうか? そのような問いが、あなたの脳内を解決しないままに、ぐるぐると駆け巡っていた。画面を見つめながら文字を打たずに、ただただ時間だけが過ぎていく。たまにクリームソーダを飲み、少しだけ頭をすっきりとさせてみる。しかし、頭がすっきりしたところで原稿が書けるわけでもない。頭の中の悩みは消えていないからだ。 諦めて帰宅するしかない、どうすればいいかは自宅で再度考えよう……あなたがそのような妥協案を実行しようとした時だった。ふと視線を移すと、目の前の席に若者の集団が居た。二十代前後の五人の男性と思われる。仮装こそしていないものの、会話の節々から渋谷でおこなわれる催し物を楽しんできた事が伺える。 その集団の中の一人──肩に掛かるほどの長髪の若者が、自分のスマートフォンのレンズをあなたの方に向けていた。理由は分からないが、あなたの事を撮影しているのだろうか? しかし、どうやらそれは違うという事が、あなたにはすぐに分かった。彼のスマートフォンのレンズは、あなたの方向から、やや外れている。あの若者は、あなたの隣のホームレスを撮影しているのである。彼らの下品な話を断片的に聞く限り、あの若者達はこのホームレスが喫茶店に居るという状況をSNSに投稿し、面白可笑しく論おうと画策しているようだ。 あなたは、その光景を見て、不快感を覚えた。 そして、あなたは、眼前の真っ白な原稿を見て、同じような不快感を覚えた。 あなたは思った。自分がしようとしている事は、本質的にはあの若者達と同等の行為なのではないか、と。 もちろん、あなたの今からやろうとしている行為と若者達が今現在している行為は、まったく違う。あの若者達にはあなたとは違い、明らかな悪意が存在するからだ。彼らの行動に不快感を覚えるのはあなただけでないだろう。多くの人が同じような感情を抱く筈だ。あなたが先程見た出来事を記述する事と若者達がホームレスを撮影する事は、同質の行為ではないのはどう考えても間違いない。 しかし、自分には関係の無い出来事に対して自分の気持ちだけを先行させるという点では、まったく同じ行為と言えるだろう。あなたも若者達も、等しく対岸の火事を見る野次馬でしかないのである。 あなたはクリームソーダの残りを一気に飲み干した。そして、ストローの隣に置かれていた長めのスプーンを使って、底に溜まったバニラアイスを食べる。そして、タブレットを閉じ、あなたは席を立った。 あなたは先程の出来事を書く事を止め、自宅に帰る事を決めたのである。 あなたは、渋谷で起きたあの出来事の傍観者でしかないという自覚を持っていた。それにも関わらず、あなたは心のどこかであの出来事の参加者になりたいという気持ちを抱いていたのだ。それは大きな間違いだ。少なくとも、今のあなたはそう感じていた。若者達の不愉快な言動により、あなたはその気持ちを再認識する事ができた。 あなたはあの若者達に感謝をしながらも、会計の際に彼らの行動を店員に告げ、然るべき対応をするように促した。それはそれとして、彼らは余りにも非常識だからである。 あの時、あなたは、目の前で起きた出来事を、ただ見ていた。それだけの存在である。そして、そのことに誇りを抱いている存在だ。 あなたは、傍観者は傍観者らしく、あの出来事から去る事を決意した。ただ、例の出来事を思い出として胸に抱き続ける事は許してもらいたい……あなたはそう思った。 あなたは次の日、自宅の近くの自動販売機でジュースが当たった話を書いた。金は問題なく振り込まれた。 〈4658字〉
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