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+ 佐山 a
私って誰? ——汚水に沈む—— 話は事件の約1週間前、10月24日に遡る。 4月から東京都下水道局に務める小野塚建だが、この日は輪をかけて憂鬱となる。先輩職員の平浦とペアとなり、江戸川区の下水道内へ調査に向かう日なのである。 「……で、なんだって僕は一人で歩いてるんだ」 長靴で汚水の中を歩きながらぼやく小野塚。一応まだ新人という扱いであるため、常に平浦と共に行動するはずなのだが、「手分けした方が早く終わるでしょ?」と途中の分岐点で小野塚と別れてしまったのだ。正論といえば正論である一方、この仕事に就いて半年しか経っていない身ではあまりにも心細い。なにせ下水道内に電灯など気の利いたものはなく、被ったヘルメットのライトだけが頼りなのだ。 それでも真面目にやらなければ、どこでどんな不具合が発生しているか分かったものではない。小野塚はガスマスク越しにため息を吐いた。 「あの平顔が……あ、割れてる。ここにクラック、と」 下水管内のひび割れを見つけ、作業服のポケットから取り出した手帳に書き込む。その時、視界に何かが入り込んだような気がした。 「うん?」 ライトに右手を添え、下水管の先を照らす。この先には合流点があり、そこで平浦との待ち合わせをしていたはずだ。そう思って小野塚は人影に声をかけた。 「せっ、せんぱー……」 ライトの光に照らされた男と目が合った。平浦なら、ガスマスクにヘルメット、作業服という、小野塚と同じ出で立ちのはずだ。だが小野塚の目に映ったのは、決してそんな姿ではなかった。そしてライトの光に照らされた顔も、平浦の起伏の少ない顔とはまるで違うものだった。 「ひっ」 喉の奥から悲鳴が漏れかかる。下水道内にホームレスが棲み付くとか、犯罪者が内部に潜んでいるとか、そういう話はよく聞く方だ。だが、アレは何かが違う気がした。 ぴちょん、と水の音が響いた。男が小野塚に向けて歩き出した、ように見えた。 「ひぃっ、ひぃぃぃぃぃぃ!!」 小野塚は悲鳴を上げながら逃げ出した。とはいっても水の流れる下水管の中だから、無論陸上選手のようにとはいかない。ばしゃばしゃと水飛沫を上げ、何度も転びそうになりながら走る。幸いにも、握りしめていた手帳を落とすようなことはなく、入った時と同じマンホールまで辿り着いた。 「で、それがあんたの供述?」 以上の顛末を身振り手振りを交えながら語った小野塚に、渡辺は面倒臭そうにそう返した。 「きょ、供述って……ま、まるで僕が犯人みたいな言い方じゃないですか」 11月上旬、渋谷の警察署。取調室で小野塚は渡辺と向かい合う形で座っていた。 「だってさあ。結局それがあの男だって保証はないじゃん?」 「そ、それなら他の人たちのも全部そうじゃないですか」 「あー? なんだお前、オレは月鬼組だぞ」 「はいはい、分かった分かった。落ち着いてください渡辺さん」 刀を帯びた私服姿の青年といった出で立ちの渡辺を、同席していたいかにも警官然とした男性が制止する。警官は小野塚に耳打ちした。 「いやごめんなさいね小野塚さん。急にこんなことで呼び出したりして」 「い、いえ」 「我々としてもまあ、こいつらゲッキどうこうには半信半疑でして。こうやって付き合わされるのにはね、まあ迷惑してるんですよ。だいたいこれだって区役所の仕事ですよ」 随分舌の回る警官だな、と思いつつ曖昧に頷く小野塚。一方の渡辺は自分が無視されているとでも思ったのか目に見えて機嫌が悪くなっている。 「ちょっといーですかねー!」 げしっと机が蹴り上げられる。驚いて危うく飛び上がりかけた小野塚の肩をポンポンと叩き、警官は宛てがわれた椅子にそそくさと座った。 「な、なんですか……?」 「あのさ、アイツも精神病患者も下水にいたわけじゃん」 アイツ、とはこの事件の根幹となっている例の男だろう。スキンヘッドに甲冑を纏った西洋人ふうの顔立ちの男。しばらく経ったが、未だに話し出す様子すらないらしい。 「ならさ、見せてよ。下水道。異能がいるかもしれない」 「え、えぇ? 中に入って確認する気ですか?」 「そりゃそうでしょ。他に何があるってんだよ」 「で、でも……それにはあの、上司の許可とかが……」 「そんなもんうちの権力で何とでもなるだろ。月鬼組だぞ、お前」 「は、はあ……」 呆然とする小野塚。警官は席を立った。 「私は手伝いませんよ、さすがに」 「当たり前だ! もっと真面目なヤツを連れてくに決まってるだろ!」 これ大丈夫かな、と小野塚はぼんやり思った。 しかし月鬼組とやらの権力というのは本物らしく、翌日には小野塚は平浦および渡辺と共に江戸川区の下水道に潜っていた。 「くっっっせぇ」 長靴以外はやはり私服に刀というスタイルの渡辺がえずきながら歩く。 「ガ、ガスマスク着けますかって、き、聞いたと思うんですけど」 すぐ後ろを歩く小野塚のガスマスク越しの声に、さらに前方、先頭を歩く平浦からくぐもった声が返ってくる。 「渡辺さーん。鼻つまんだりして口で息するといいですよー」 「そのアドバイスするくらいならガスマスク寄越せ!」 「だっていらないって言ったじゃないですか、ダサいって」 「前からも後ろからも同じことばっか言いやがって」 言われたとおりに鼻をつまみながら、渡辺は刀をカチャリと鳴らした。その鞘の先端は先程から少し汚水に漬かっている。いつ気付くんだろうか、と小野塚は思った。 「おっ、たぶんこの辺ですねー。だよな?」 「は、はい」 平浦の言葉に頷く小野塚。まさしくそこは男と遭遇した場所だった。 「んじゃ、オレが確かめるんで。そこ動くなよ」 格好つけて平浦を下がらせた渡辺は、しかし下水道を歩くには慣れていないようでジャバジャバと不格好に進んでいく。それを見守りながら平浦が呟いた。 「なあ、あれ鞘の先っちょ沈んでるよな。いつから気付いてた?」 「わ、割と前から……」 「小野塚、意外とやるねえ」 謎の称賛をよそに、渡辺は壁面や天井を慎重に見分していく。水面に近付けた顔をあからさまにしかめて、ようやく小野塚たちの方を振り向いた。 「何も感じないな。感知系の仲間を連れてくるべきだったか」 「あははー、正直もう付き合わされるのはご勘弁願いたいですね」 「何か言ったか?」 「いえいえ」 その時、渡辺の頭に何かがびちょっと垂れた。 「うおっ、なんだ!? うんこか!?」 「下水だからってそんなもん降ってくるわけありますか。ほら、あれですよ」 平浦は渡辺の頭上を指差す。 「あの亀裂から水が垂れてんです。地下水か上水道か、少なくともこの真上に下水管はないはずなんでうんこじゃありません」 「なんだ。ったく、お前らが点検してんだろ? ちゃんと直しとけよ」 「は、はい……報告はしておきます」 こうして突発点検は終わり、渡辺は事務所にて小野塚らの上司こと竹橋課長に茶菓子で丁重にもてなされて帰っていった。鞘が汚水に漬かっていたことには最後まで気付かなかった渡辺を見送りながら、平浦は扁平な顔の中で唯一飛び出している鼻の頭を掻いた。 「なあ小野塚」 「な、なんですか先輩」 「月鬼組って何よ」 「ぼ、僕も分かりません。でもなんかお巡りさんもあの人を上司みたいな扱いしてましたし、なんだか偉い人なんだと」 「そうだな。お前のそうやってとりあえず結論決めつけようとする癖、あんま良くないぞ」 むっとする小野塚。平浦は時計を見やる。 「まだ時間ありそうだな。課長、ちょっといいっすかー」 呼びつけられた小太りの竹橋課長が、整理していた書類を置いて平浦のもとにのしのしと歩いてくる。 「なんだい、平浦くん。ぼかぁワケの分からないお役人さんに付き合わされて疲れてるんだ」 「俺らもそのワケのわからないお役人に下水道まで付き合わされてんですけどね。今日行ってきた下水管なんすけど、気になるとこがあったんでちょっと追加で点検してきますわ」 そこで平浦は小野塚の肩に手をかけた。 「こいつと一緒に」 分かりやすくうんざりした表情を見せる小野塚。 「え、えぇ……き、今日はもう帰っていいって聞いてたんですけど」 「そうだよ平浦くん。後から書類整理するぼくの身にもなってよぉ」 「いやいやそこをなんとか。ちょっと見て帰ってくるだけっすから、ね?」 小野塚と竹橋は顔を見合わせた。 かくしてまた下水道に舞い戻った平浦と小野塚。予想外の業務に肩を落とす小野塚を連れ、平浦は10月の点検で自分が向かった方へ歩いた。 「なあ小野塚」 「なんですか」 「お前、マンホールの守護者って知ってるか」 「……ど、こかで……聞いた、ような?」 小野塚は首を捻った。 「あ、そ、そうだ。ハロウィンにいました」 「いた? えっ、会ったのお前」 「な、なんか、どこかの病院から逃げ出してた人で、あの……十年逃げてるうちに、指名手配されたっていう」 「オーケー、それじゃねえわ」 そこで不意に立ち止まる平浦。 「ど、どうしたんですか……えっ」 小野塚は思わず絶句した。 「なあ小野塚。これ、なんだと思うよ」 下水道の壁面。本来、ひとつのひび割れも許されてはならないはずのそこに、黒々とした大穴が口を開けていた。 「えっ……あっ……こ、今年の夏の台風で……ですよね、たぶん」 「違う。それよりもっと前からあった」 「そ、そんなのあるはずないじゃないですか! だって毎月、下水道局の職員が点検して」 「この区域を担当する連中は大体この穴のこと知ってるよ」 「そ、それってつまり、こんなの報告したところで大工事になるのを面倒臭がって」 「そりゃまあそうなんだが。俺らの間じゃ、こんな言い伝えがある」 大穴の奥からはぬるい風が吹いてくる。 「この大穴は北は津軽半島、南……っつーか西だが、下関まで、下水道を最短ルートで繋いでる。そしてこれを、“マンホールの守護者”ひとりが人力で掘り抜いたってな。そんな噂が」 小野塚は唖然とした。 「そ、そんなの……」 「そう、証拠なんかない。あったとしても足元の汚水に流れてんじゃねえかな」 平浦は踵を返す。 「覚えとけ小野塚。下水管点検で妙なモン見るなんてのはまあ日常茶飯事だが、それを早合点して知ってるモノに結び付けんな。俺らが見なきゃならんのはもっと小さい亀裂だ」 そう言い残して去る平浦を慌てて追いかける小野塚。最後に振り向いた時、大穴の奥に、誰かがいた。ような、気がした。
@NihonUniversity College of Art