原稿入力
戻る
ピース番号
名前
原稿
c1p
市村涼香
こんなことになるなんて思ってなかった。 ごんざえもんパークの新キャラクターの名前を決める会議だったはずなのに、気がつけば会議室には異様な空気が漂っていた。叫ぶだけ叫んで逃げ出した中村に呆気にとられる社員たち。誰かが言葉を発するわけでもなく、各々がこの後どうするべきかを考え黙っている。かくいう私もこの後起こるであろう、亘くんからの追求をどう切り抜けるかを考えていた。 斜め前から私に対して熱い視線を降り注いでくる亘くんに気が付かないふりをして「お手洗いに行ってきます」と会議室全体に聞こえるように言い廊下に出る。脳内では会議中の発言がグルグルと巡っている。カツカツとヒールを鳴らしながらお手洗いまでの道を歩く。到着して私はすぐさま大きな鏡の前に立った。お手洗いなんて嘘だ。私の目的は、この状況を誤魔化せる言い訳を考えることだった。だって私、社長と浮気してるもん。 事の発端は数ヶ月前、必死に勉強し秘書検定に合格した私は、ただの事務員から秘書になった。秘書になってから社長との関係が始まったのではなく、秘書になる前から社長とは仲良くしていた。社長からの誘いでたまに二人でご飯に出かけては、先代からのプレッシャーとか、奥さんと上手くいってないとか、あとは仕事の相談とか。とにかく色々なことを話していた。その時から、秘書検定に合格したら君を秘書にすると伝えられていた。秘書になったら給料が上がるというのは知っていたから、自由に使えるお金がもっと欲しかった私は「絶対ですよ」と念を押して、猛勉強の末私は秘書検定に合格した。二人で会う前から亘くんと付き合っていたため、社長と二人で会うのは無断ではなく、ちゃんと亘くんから許可を得て会っていた。最初こそ嫌そうにしていたが、亘くんが一番好きだと伝え続けていたら、「僕じゃ聞けないことがあるからね」と渋々承諾してくれた。「ありがとう」と伝える私に向けて優しく微笑む亘くんがかっこよくて思わず抱きついてしまったのを今でも覚えている。 正式に秘書になってからは二人で会う回数が増えていって、場所も居酒屋から個室に、そして薄暗いBARになって行った。そうして気がつけば浮気と呼ばれる関係性になってしまっていた。別に初めから浮気をしようとしていた訳じゃない。社長だから、お金を持ってるから、会う度にちょっとしたプレゼントをくれるから。しかもそのプレゼントが自分で購入するには躊躇ってしまうような金額のものばかりだから。浮気と言っても、おじさんすぎる社長に身体を許すのは嫌だから決してやましいことはしていない。せいぜい同年代の女の子もやってるパパ活レベルだ。 彼氏の亘くんは顔がかっこいいし、何をするにも完璧で、私のことを好きでいてくれるいい人。キラキラした神宮寺って名字も亘くんに凄く似合っていると思うし、結婚を早いうちから考えてくれているのも優しい。私なんかに勿体ないくらい。 「あー。どうしよ」 鏡の中、少しゲッソリとした表情の自分を見て思わずため息が零れる。巻いていた髪の毛は立ち上がったり頭を振ったりしたせいで巻きがとれてボサボサになっているし、緊張でお茶を飲み続けていたせいか唇に色がない。ポーチから亘くんがプレゼントしてくれたリップを取りだして唇に色を乗せる。 亘くんはきっと将来出世するだろうし、もしかしたら転職して大手企業で働いているかもしれない。そんな亘くんを逃す訳にはいかない。こんな事で亘くんとの結婚が無くなるなんて、絶対に嫌だった。社長も私と浮気していたことがバレたら、自分の娘である鈴木に色々言われるだろうし、それこそ本当に浮気だと言われて離婚する可能性だってある。会議中も浮気はしていないと話を合わせてはくれていた。だからきっと浮気はしていないで突き通せる……はず。 前髪をササッと整え身だしなみの最終確認をしてパウダールームから出る。26年生きてきて初めての修羅場をちゃんと乗り越えなくては。 心臓をどくどくと鳴らしながら来た道を戻る。全身の血管が心臓と共鳴してうるさい。会議中とは比べ物にならないくらいの恐怖が身体を襲っている。 ドアノブを握る手が震える。ちゃんと、言い訳をしなくては。俯きながら会議室のドアを開ける。短く深呼吸をして顔をあげると、広い会議室の中にぽつんと亘くんただ一人だけが座っていた。 「……おかえり」 「ただいま……?えーっと、他の人は?」 ホワイトボードに書かれた私の文字も、中村と社長と骨川さんの取っ組み合いでガタガタになった机も、机の上に人数分置かれた資料、鈴木が運んできたお茶もそのままに、ただ人だけが居なくなっていた。 「社長が帰らせたよ。だから僕も瑠奈も、もう帰っていいんだって」 ちらりと壁にかかっている時計を見れば、時計の針はまだ就業時間には早い時間を指している。こんな時間に帰らせること、ある? と一瞬考えたが、部屋を飛び出す人が出てしまったのに今日この後終業まで集中して業務をやれるわけないかと納得する。 「そっか……?」 にこやかに笑いながら私の顔を見る亘くんに思わずタラりと額から汗がつたった。 亘くんは普段、絶対私の事を怒らない。どれだけわがままを言っても、理不尽なことを言っても、年上の余裕なのか、それとも単純に私の事を子供だと思っているのか常に笑っている。でも、今は、これまでと全然違う。目の前にいる亘くんの目が全く笑っていないのだ。目を細めていて、口角も上がっているのに、瞼の奥にある瞳が冷たく一切笑っていない。見たことの無い亘くんに対して、ただ怖いと思ってしまう。思わず握っていたドアノブを離して扉を閉じて曖昧にして逃げてしまいたいと思うのに、亘くんはそれを許さないようだった。 「だから、もう帰ろっか? 色々聞きたいこともあるし」 準備もしてるから。と、私の荷物を持った亘くんが私の腕を掴む。振りほどけない力で握られた手首と、こちらを見ずに歩みを進めていく亘くんの横顔を見ながらこの後のことを考えていた。 亘くんの車の前に連れてこられた。扉の前て立ちすくんでいると、亘くんが慣れた手つきで車の鍵を開け助手席の扉を開いた。 「乗って」 その言葉に促されるまま助手席に座る。シートベルトを私がつけたことを確認すると亘くんは扉を閉めた。運転席に乗り込んだ亘くんは、ボタンを押してエンジンを付けるとすぐに車を発進させた。 車が発進して数分経っても二人の間には会話はなかった。どちらかが会話を始めるような空気もなく、ただただ気まずい沈黙が車内に流れ続けていた。亘くんも沈黙が辛かったのか、ハンドルについているボタンをポチポチと操作しテレビをつけた。ラジオのように流れているテレビは、どうやらニュース番組のようで、野球選手がホームランを打ったとか、どこかの会社の経営が傾いているとか、そんなニュースを読んでいる。 デートの時しか乗ったことがない車にこんな状態で乗るなんて思ってもいなかった。亘くんの匂いに包まれているはずなのになんだが少し居心地が悪い。元はといえば原因を作り出したのは私なのに。 『人気俳優──さんの不倫が発表されまたした』 気まずさを紛らわせようと耳を傾けていたテレビから聞こえてきた単語に思わず身体が強ばる。先ほどまでなんて事ない日常のニュースの話題だったのに。ちらりと亘くんの横顔を覗いてみれば、亘くんもその単語に気がついたのか、思い出したかのように口を開いた。 「……浮気、してたの?」 「してない!」 会議中と同じように声を張り上げてしまい、亘くんがびくっと肩を揺らしたのが分かった。いけない。感情的になってしまっている。ふぅと一息、ため息をついて目を閉じる。亘くんも、真剣に話そうとしていることが伝わったのか、道の端に車を停め、テレビの音を最小にした。ずっと前を見ていた視線がついに私の方へ向けられた。依然として瞳は冷たいままで、私も負けじと亘くんの目を見つめた。 「ルナ、ほんとにしてないんだよ。浮気」 落ち着きながら、でも少し甘えたように声を出す。シートベルトもぎゅっと掴んで、亘くんが知っている、少しバカで、だけど可愛いルナになるように。 「社長と二人で会ってたのは?」 私の態度に、少しだけ亘くんの纏う空気が柔らかくなった。このまま押せば誤魔化せそうだと考え、そのまま今日起きたことをなぞるように発言を続ける。 「ルナの仕事と、社長の仕事についての相談と……あと、奥さんについての相談受けてたの」 「へぇ」 「ルナ、奥さんと上手く行ってないって相談受けてたから、本当にビックリしちゃって。子供もいないって聞いてたし……ルナ、騙されてたのかな……?」 ぎゅっと目頭に力を入れるといとも簡単に涙が溢れた。私の頬を伝う雫を見て、亘くんがぎょっと目を丸くしたのがわかる。付き合ってから今まで、亘くんの前では泣いたことがなかった。この涙はもちろん嘘だけど、亘くんはきっと気が付かないだろう。 「っ、ごめん。泣いちゃって。ダメだよね、こんな時に泣くの」 メイクが取れることなんてお構い無しに涙を流していれば、亘くんが慌てたようにハンカチを差し出してくれた。そのハンカチは付き合って二年目のクリスマスに、お互い似合いそうなものを買ってプレゼントしあったハンカチだった。素直に差し出されたハンカチを受け取ると、手で触れただけで丁寧に使われていることがわかった。プレゼントしてから、もう何年も経っているのにいつまでも大切にしてくれているんだ。亘くんから受け取ったハンカチで目を抑える。ふわりと香る柔軟剤は私が好きだと言ってからずっと変わっていない。やっぱり、亘くんはいい人なんだ。そして、私のことをずっと好きでいてくれてるんだ。こんなにいい人が彼氏なのに、私は目先の欲望だけで社長と関係を持ってしまっていたかと思うと今までの行為がバカバカしくなってくる。なんで今、気づいてしまったんだろう。恥と後悔と絶望が入り交ざった心の底から流れてきた涙のせいで、なにか言葉を紡ごうにも、喉の奥につっかえて上手く言葉が出てこない。 お世辞にも可愛いとは言えないような嗚咽が、微かに聞こえるテレビの音に混ざって車内に響く。こんなに可愛くないところ亘くんには見せたくなかったのに。そう考えてしまっても涙は止まらず、ただただ亘くんのハンカチを濡らしていく。ハンカチで見えないが、亘くんが少しあわあわとしているのが何となく伝わってくる。亘くんの大きな手が私の背中に触れる。壊れ物を扱うかのように優しく撫でられて少しだけくすぐったい。私、その程度じゃ壊れないのに。 「……ルナ、亘くんのことが好きだよ」 パッと顔を上げ、亘くんの目をじっと見つめる。きっと私は今とんでもなく可愛くないだろう。それでも、ちゃんと今、思ったことを伝えなくてはと思った。もしこの後、亘くんが私と別れたいと言ってきたら、ちゃんと受け入れよう。でも、もしチャンスをくれるなら今度は絶対浮気なんてしないから。 「本当に、大好きだよ。亘くん」
@NihonUniversity College of Art