原稿入力
戻る
ピース番号
名前
原稿
e6p
わっつ
あのとんでもない、修羅場としか言いようもないような会議から三日が経った。オレの横領は神宮寺の告発により会議参加者たちの元に晒されることとなったが、あの無能社長はアイツらに口外を禁止し、これから立て直していけばいいなんて甘えたことを口にしていた。あの無能は、あくまでもオレを許そうとしているようだ。……アホらしい。あの無能は、結局はただ自分の事しか考えていないだけだろう。仲間だ、助け合いだ、どれだけそんな言葉を並べ立てようが、そこには中身が詰まっていない。ただの空っぽな戯言だ。秘書との不倫問題に娘の色恋沙汰にと、より自分に強く関わる問題で脳のリソースが一杯になったから、オレの方まで手を回せないというだけにすぎない。無能は、どこまでいっても無能なままだ。とすれば、オレが目下向き合わなければならない相手は他にいる。オレがこれまでのように優秀であることへの対価を支払い続けてもらうためには、アイツと話を付ける必要があるだろう。 「お疲れ様です。この後、お時間いただけますか?」 「飯田さん……。はい、大丈夫ですよ」 普段は誰に対しても柔和で人当たりのいい笑顔を浮かべるこの男が、オレの誘いに対して複雑そうな顔で頷いた。コイツは、オレが被った仮面と同じ姿をしている。だからこそ、オレは見定めなければならない。コイツのその顔には、何枚の仮面が張り付いているのかを。神宮寺亘という男の、その本質を。 「ここですか?」 「ええ、いい店でしょう。私のお気に入りを神宮寺さんにも紹介したくて」 オレは神宮寺を連れ、会社から徒歩二十分ほど離れた場所にある少し小洒落た居酒屋に足を運んだ。この店は座敷タイプの個室があるため、人に聞かれたくない話をするのに重宝する。ここであれば、互いに仮面を付けて笑い合う必要もないというわけだ。 「それで、僕に話というのは……」 「まあまあ、その話は後にしましょう。まずはパーっと飲みましょうよ。何にしますか?」 神宮寺から希望を聞き、オレも同じものを注文する。程なくして、酒とつまみが運ばれてくると、オレは困惑の色を隠そうともしない神宮寺と半ば強引に乾杯し、一気にそれを飲み干した。 「あの、それで話って」 「神宮寺さんがそれを飲み干したら、話し始めるとしましょうか」 オレの提案に多少躊躇したような様子を見せつつも、神宮寺は目の前の酒を一気に呷った。 「これで、いいですか」 そう問いかける神宮寺の目が、あまりにも真っ直ぐにオレを見つめていた。だから俺は—— 「——なあ神宮寺、オレの下に来いよ」 仮面を、その場に脱ぎ捨てた。 「……意味が分かりません。それは、どういう」 「とぼけんなよ。オレが横領してるって、あの会議の場でチクリやがったのはお前だろうが。正義感の強いお前が、横領の現場を目撃したにも関わらず、会議の瞬間までそれを黙っていた。お前が何を企んでいようが知ったこっちゃねえが、お前がオレの下につくというのなら、どんな望みだろうがこの優秀なオレが叶えてやるよ」 オレの言葉を聞いて、神宮寺は酷く怯えた表情を浮かべる。小動物のように小刻みに震えるその姿からは、到底その腹の中に渦巻いているであろう黒い影は読み取れない。だが、こういうやつほど見えないところにドス黒く汚れたものを隠し持ってやがるものだということはいつだって相場が決まっているのだ。オレは今夜、お前の狙いを暴き、本性を曝け出させ、そうしてオレの下に置いてやる。そのために、オレはお前の望む言葉を差し出してやればいい。 「なあ神宮寺。仮面を被っていい人を演じるのはさぞ大変だっただろう。分かるさ、オレもお前と同じだからな」 「僕は、そんなこと」 「いいんだよ。ここでは全部曝け出していいんだ。オレとお前はよく似ている。頭が良く、顔が良く、仕事ができ、人の頼みを快く引き受けてくれるような、優しくて優秀な社員だ。それは決して間違っちゃいない。が、同時にその姿を演じている自分も存在する。そうしてお前は、いつしか周囲から評価されることでしか自分を確立できなくなった。優秀であると評されるお前は、決して優秀とは呼べない孤独なもう一人の自分を心の奥底に抱えているんだ。違うか?」 優秀であること。それは、この会社に存在する、オレとお前だけに共通した要素だ。あんな無能どもに囲まれて、気苦労も絶えない中で何とか外面を保ってこれまで過ごしてきた。その日々を、その苦痛を、オレだけが理解してやれる。お前の傷口を、優しい言葉という名の鋭利な刃物でなぞってやることで、お前はオレに心酔するんだ。さあ神宮寺、そろそろ終わらせよう。 「僕は……」 「もう、無理しなくていいんだ。オレはお前をちゃんと見ている」 「飯田、さん……」 「オレがその苦しみを理解してやる。全てを曝け出して、楽になれよ、神宮寺亘」 曝け出せ。お前の醜い本性を。周囲の無能どもへの怒りを。優秀であるというプライドを。その本能を。 ドン、と個室に低く、重い音が響いた。神宮寺がテーブルに拳を打ちつけた音だ。それからしばらくは、静かなものだった。聞こえるのは、神宮寺の嗚咽くらいなもので、オレは何も言わずコイツを見つめていた。次にお前が口を開いた時、真っ先に優しい言葉をかけてやるために。オレが、優秀である対価として、特別多くの金を受け取るために。 どれくらい経ったか、ようやく神宮寺はゆっくりと口を開き、残り少ないホイップクリームをギュッと絞り出すようにして、か細い声で言葉を紡ぎ出した。 「僕は……本当は優秀なんかじゃないんですよ……」 しかしそれは、オレの想定とは異なる内容だった。優秀じゃない? お前は、優秀であるが故の苦悩を抱えているはずだろう? 無能に囲まれていることに苛立ちを感じているはずだろう? 「僕は、仕事ができると皆さんにすごくよく褒めていただけます。でも、本当の僕はそんなことなくて……。いつもにこにこして、何の心配もないように振る舞っていても、心の中ではプレッシャーに押し潰されそうで、一杯一杯なんです……」 何を言っているのか、理解ができなかった。理解ができない? ……この優秀なオレが、理解できないだって? 頭がおかしくなりそうだ。コイツは、本当に何を言っているんだ。 「なあ、お前何言ってんだよ? お前は優秀で、腹ん中では無能な連中を見下しながら退屈な業務をこなしている、オレと同じタイプなんじゃねえのかよ?」 「まさか! 僕は自分に自信がないんです、誰かを見下すだなんて考えたこともありません……」 コイツはこの期に及んで未だそんな頓珍漢な言い訳で自分の仮面を守り続けようとしてやがるのか? そっちがその気なら、こっちは別の視点から切り込んでやるよ。 「横領の件は? オレが数値を書き換えるのを見たお前は、その場で止めに入らずに会議の場でわざわざ告発しただろう。あれは何の意図があったってんだ?」 「あの時は気が動転していて……。止めに入らなかったんじゃなく、入れなかったんです。それからずっと考えていました。このことを誰かに言うべきか、黙っているべきか……」 「はっ、それでよりによって会議中に大暴露か。自称意気地無しの割には大した肝っ玉じゃねえかよ?」 「もう、どうにかなってしまいそうだったんです。早く口にして楽になりたかった。大体、あなたが横領なんてするのがいけないんですよ……! 僕は、あなたの悪事を目撃してしまったばかりに、会社かあなたか、どちらかの将来を壊す役目を背負わされたんですから!」 コイツという人間の言葉は……どこからどこまでが本心だ? 臆病で、傲慢で、これじゃあまるで—— 「——お前もまた、無能な社員の一人でしかないってわけかよ」 それに気付いた時、どうしてか酷く落胆している自分がいた。別に、神宮寺が無能であろうが、オレに大して関係はないし、それならそれでここから言いくるめてやることは簡単だ。しかし、どうしてもそうする気が起きなかった。ブツクサと文句を垂れ続けている目の前の小動物から視線を外し、オレは追加のビールを注文することにした。 届いたビールをもう一度一気に飲み干した後、目の前の小動物に向き直ると、コイツは依然として肩を震わせながらも、何かを決意したかのような真っ直ぐな瞳でオレを捉えていた。その瞳に少し苛立ちを覚え、こちらも真っ直ぐに睨みつけてやった。 「何だよ」 しかし、小動物の潤んだ瞳はオレを未だ捉え続けている。その口が開かれたのは、少し間を置いてのことだった。 「飯田さん」 意を決したように、小動物は拳を握り込みながら、向かい合わせのオレの隣に移動してくる。その間も、片時も視線は外されることなくオレに注がれ、手を伸ばせば触れられるほどの距離で、小動物は再び黙ってじっとオレを見つめた。しかし、この奇怪な行動に対しても、オレはあくまで臆することなくコイツを睨み続けていた。全ては、オレが優位に立つためだ。こうすることで、臆病な無能であるコイツは、冷静さを欠いて正常な思考ができなく—— 「ごめんなさい!」 ——その瞬間、だった。オレの視線は小動物から外れ、ゆっくりと天井へ注がれていく。隣に敷かれていた厚めの座布団に後頭部が沈んでいったこともあり、それほど強い痛みを伴うこともなく倒れ込んだ。何が起きた? オレは今、殴られたのか? この、目の前の小動物に? 「飯田さん」 小動物は、天井に注がれた視線に入り込むようにして、オレの顔を上から覗き込んで言った。 「これで、僕も犯罪者です。飯田さんと同じです」 本当に何を言っているんだ? 困惑しきりのオレを無視したまま、コイツは言葉を続ける。 「暴力をふるったら、警察に捕まります。でもそれは、相手が許して、訴えなければその限りではありません。横領も同じです。いや、同じですかね……あー、でもうちの社長は許すって言ってるんですから、同じです」 「お前、何を」 ようやく状況が飲み込めてきたオレは、上からオレを覗き込む小動物のネクタイを両手で強く掴んだ。オレは今、はっきりと怒りを感じていた。こんな臆病な無能如きが、優秀で有能なオレを殴りつけ、あまつさえ何かを説こうとしてきてやがる。この上ない屈辱だ。 「僕は、あなたととてもよく似ています」 「ああ!?」 それは、つい先ほどオレの口から発したはずの言葉。それが、今は無性に腹立たしく、不快にオレの腹の中をぐちゃぐちゃと蝕んだ。こんな無能と一緒にされることへの苛立ちは、もはや抑えようがなかった。目の前の小動物を、この激情に身を任せてどうにかしてやりたかった。このまま首を絞め殺してやろうとさえ思うほどに、オレは冷静さを欠いていた。しかし、目の前の小動物が発した次の言葉で、オレは再び思考が停止する感覚へと落とされた。 「僕も、あなたも、二人揃って無能なんですよ」 そんな、理解不能な言葉によって。オレは目を見開いたまま、瞬きも忘れてただ神宮寺に視線を注ぎ続けた。目が乾いて涙がこぼれ落ちてもなお、その視線は一瞬さえ外すことはできなかった。そんなオレの姿を見て、神宮寺は静かに涙を流しながら言った。 「もう、人を見下すのはやめにしましょう。僕たちは、みんな大した人間なんかじゃないんですよ……!」 それは、まるでオレを憐れんででもいるかのような。苛立ちを感じようもない、慈愛に満ちた涙だった。 それからどれだけの時間が経っただろうか。乾ききった目が痛んでしばらく開くことができなかったオレは、やっと少しずつ明るくなった視界から真っ先に神宮寺の顔を探した。どうやらアイツは既に向かいの席へと戻っており、手元で作業か何かをしているようだった。何か言おうと思ったが、どうにも上手く言葉が出てこず苦戦していると、アイツはそんなオレの様子に気付いて目線をこちらに移した。 「大丈夫ですか?」 オレの顔面を殴っておいて、随分と他人行儀な聞き方をしやがる。だが、今はツッコむ気力も湧かなかった。ただ、力無くアイツに視線を注ぐことで精一杯だった。 「すみませんでした。僕は決して優秀な人間なんかじゃありません。だから、こんな方法しか思いつきませんでした」 そう言って深々と頭を下げるその姿を見ていると、どうにも先ほどまでの怒りが思い出せなくなった。 「あの、これ見てもらえますか」 神宮寺は作業をやめ、手元にあった物をおもむろにこちらに差し出した。 「手帳?」 それは普段から神宮寺が使っている見慣れた黒の手帳だった。 「はい。ここに、飯田さんがこれまでに横領した額の詳細を僕なりに計算してまとめてみたんです。細かい部分は間違っているかもしれませんが、概ね現状の数値とも一致します」 そこには、甚大な量の本来の支出とオレが書き換えた後の支出の数値との比較が並べられており、オレがいつどれだけの額を横領してきたかが事細かに記されていた。 「手書きですみません。あまり、パソコンが得意ではなくて」 確かに、こんなものソフトを使って計算した方が遥かに早いし便利だろう。だが、問題はそこではない。コイツは、正確な数値を知りもしない上で、頭の中だけでこの額の計算を行ったのか? それがどれだけ難解で高度な技術かは、考えるまでもなかった。そんな離れ業、オレにはできやしないからだ。 「……はは、そうかよ」 神宮寺亘。コイツは決して無能なんかじゃねえ。本当に無能だったのは—— 「——オレだけ、だったのか」 困惑する神宮寺を横目に、オレは立ち上がって鞄から財布を取り出した。 「そろそろ帰りましょう。お会計は、私がまとめてやっておきますから」 「あ……はい。ありがとうございます」 「こちらこそ。今日は楽しかったです。また一緒に飲みに行きましょう」 「えっと、僕で、よければ」 仮面を被り、会計を済ませたら、また普段の日常へと戻っていくだけ。オレが慣れ親しんだ夜の街に、このまま身を委ねてしまいたい気持ちをグッと堪えて、オレは最後にもう一度神宮寺に向き直った。 「明日から、また一緒に頑張りましょうね」 神宮寺は、戸惑いながらオレの言葉の真意を探るように一瞬静止する。しかし、そこに真意なんてものがないことに、優秀であるコイツはすぐに気がついたようだ。 「はい。頑張りましょう!」 そうしてオレたちは別れ、それぞれの帰路に着いた。本来であれば、この後はいつもの店で飲み直す予定だった。スマホには、メッセージの通知が百件以上も溜まっている。来店の催促だろう。そんなものなくたって、元々オレは行くつもりだったってのに。そんなに言われてしまうと、どうにも行く気が失せてしまうな。 「似合わないことは、しないに限るんですがね」 オレはトーク履歴を全て削除し、夜の街で出会った人間全員をブロックした後、財布の中にありったけ入っていた名刺も全てゴミ箱に投げ入れた。 「有能か、無能か」 オレがずっとこだわり続けてきた二種類の人間分類。オレはずっと、自分を優秀で有能な人間だと信じて疑わなかったし、それと同じように、周りの人間を無能だと信じて疑わなかった。しかし、今日の一件を振り返れば、揺るぎようのない真実がオレを抉るのもまたどうしようもないことだった。無能だと自称する有能・神宮寺亘と、有能だと自称する無能・飯田優司。アイツは、そんな対比構造をオレに突きつけてきやがったんだ。流石に、それに気づけないほどバカじゃない。オレは無能だったかもしれないが、バカになってやるつもりはなかった。受け入れ難いことではあった。しかし、不思議と今のオレに不快感はない。ただ晴れやかな気持ちで、夜の街を真っ直ぐに突っ切って帰宅した。その晩のシャワーは、どうやら給湯器の故障があったようで冷水しか出なかった。十一月の冷え込んだ夜に浴びる冷水は、オレの頭を急速に冷やした。それに、オレは小一時間身を委ねることにした。 翌日から、オレは真面目に働くようになった。相変わらず社長周りは揉めているし、その他にも問題は山積みのようである。だが、きっとこの会社の膿という膿は、真に有能な社員が次々に出し尽くして解決していってくれることだろう。無能なオレにできることは、これまでの過去を精算し、ただ目の前のことに集中して取り組んでいくことに他ならない。面倒ごとは、有能な人間に任せておけばいい。 キーボードを叩く音がオフィスに響く。それを掻き消すように、誰かの叫び声がまた響き渡る。騒がしく、最低な仕事環境だ。しかし、それも悪くない。これからどんな風にこの会社が変わっていくのか。それを見たくなった。 昼休憩が終わる頃、ちょうど有能な社員が横を通ろうとしていたので、クッキーの差し入れと共に声をかけた。 「なあ。オレはもう邪魔なんてしねえからよ。この会社をどう変える?」 有能な社員は微笑みながら答えた。 「さあ。でも、僕なりにやってみます」 色恋沙汰に、親子関係に、乗っ取りの企てに——。大小様々な問題を前に、年甲斐もなくオレはワクワクしていた。乗り越えろ、神宮寺。そして変えてみせろ。オレを無能にしたように。この修羅場まみれの会社を、平凡でありきたりな姿へと。
@NihonUniversity College of Art