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この事態を飲み込めない状態にあるのは、きっと僕だけではないはずだ。修羅場としか言いようのない企画会議を終えても、誰もその場から立ち去ろうとしない。まだ僕たちには、解決しなければならない問題が山ほど残っているのだ。 静閑な会議室に緊張感が漂う。こんな状況にありながら、いったい誰が最初に口火を切るか、それぞれが探り合う様子が伝わってきた。 僕はどうすればいいのかわからず、ただ立っていることしかできない。「今回の会議はここまで」と終了を告げたはずの社長でさえ、流れる沈黙と誰かの荒れた呼吸に耐えかねうつむき続けている。 僕は動揺か、それとも怒りからなのか、震える両手を膝の上で重ね、あれこれと中村から追求され不服そうにしている瑠奈を見た。結婚を見据えて交際を続けてきた相手のはずが、「不倫」だの「離婚」だの、結婚以前の問題が見えてきたせいで頭が追いついていない。詳しく理由を聞こうにも、この雰囲気の中、迂闊にまたその話題を蒸し返すことは憚られた。 「あの、すみません」 静寂を破るように突然扉を叩く音がし、女性が外から顔を覗かせた。彼女は社長を見ると「会議中申し訳ありません。社長にお電話です」と控えめな声で告げる。 「ああ、そうか! じゃあみんな、それぞれ仕事に戻ってくれ」 助かったと言わんばかりの声色が会議室に響き、社長は逃げるように出て行った。「は?」という鈴木さんの苛立ちのこもった声をきっかけに、それぞれが不満をにじませながら会議室を後にする。重い空気は扉の向こうに流れていくが、目の前で立ち止まった飯田さんは、僕の顔を覗きこむようにしながら「余計なこと言ってくれたな」と凄む。 僕は情けなくも、縮こまりながら「すみません」と謝った。頭では謝ることなど何もないとわかっていても、部下という立場上、えらそうな態度をとることは僕にはできない。 どうしてこうなったんだろう。うつむきながら何度も考えてしまい、今すぐにでも、あの扉の外に飛び出していきたくなる。 去り際、飯田さんは腹立たしげな態度で僕に肩をぶつけると視界から消えていく。皆気が抜けてしまったせいなのか、あれほど口々に騒ぎ立てていた様子が嘘のように憔悴していた。それぞれが抱えていたものを解放した安堵と、知りたくなかったことを知ってしまった動揺や焦りが感じ取れる。顔を歪ませながら出て行く流れの中で、僕は「瑠奈」と彼女を呼び止めた。 ハイヒールの音が通り過ぎ、再度名前を呼ぶと、「なに?」といつもと変わらない声色で言葉が返ってくる。『ワタシナニモワルクナイデスヨ』と書いた紙を、そのまま貼り付けたような顔をして、僕をまっすぐな瞳で見ている。 その態度に、僕が感じたものはすべて勘違いだったのかという錯覚に陥った。 「さっきの、会議での話なんだけど」 「ああ~あれ? 気にしないで。あんなの嘘だから」 回りくどいごまかしや言い訳をするつもりはないようだった。しかし今の僕には、会議での話が真実か否か確かめる勇気がない。 「みんなその場の空気で興奮してただけだよ。社長とはなんにもないし、亘くんだけだから。ね?」 何度となく聞いた言葉を信じたい自分と、無視できないやりとりを目の当たりにした現実との間に挟まれ混乱している。 「……信じてくれないの?」 何もいわない僕を見て不安になったらしく、瑠奈が一歩近づき不安な表情を浮かべる。僕は彼女のこの顔に弱い。 「信じてるよ。信じてるけど」 思わず言葉を濁してしまう。どう答えるのが正しいのか、いや、この際はっきりと聞いておくべきなのか。これまで瑠奈との間に溝を感じることはなかったが、結婚を考え始めたタイミングでこんなことが起きてしまっては、その考えにも迷いが生じてしまう。 「ほんと?」 「……うん」 「よかった。亘くんに嫌われたら嫌だもん」 僕も嫌だよ、と普段の自分なら、そう答えていたに違いない。順風満帆な恋人関係を築いていたから、こういう時、どんな反応をすればいいのか想像ができない。 「神に誓って、社長はただの上司だし、やましいことないからね。中村くんがいってたことも気にしなくていいから」 彼女はぐっと僕の両腕を掴み、上目遣いで見上げる。確かに彼女のいうとおり、社長とは僕が想像しているようなことはなく、ただ秘書という仕事について僕の理解が足りないだけだったのかもしれない。 「じゃあルナ仕事あるから行くね。ばいばい」 ぎゅっと両手を握りしめたあと、瑠奈は笑顔で手を振りながら会議室を出て行った。 ひとり取り残された僕は、ため息をつき頭を抱えるしかなかった。 散らかった室内をきれいに整えてから自分のデスクに戻ると、「なあおい」と言って隣席の同僚が椅子ごと動きながら近寄ってきた。周囲の視線を感じ、見ると、社内は落ち着かない様子でざわめきが広がっている。 「今日の企画会議、神宮司も参加してたよな? 途中すっごい叫び声聞こえたけど、なんかあったの」 会議室からそう遠く離れていないため、あの騒ぎがここまで聞こえていても不思議ではない。答えづらいなあと思いながら「まあ、いろいろもめてさ」とごまかす。あの場での内容を安易に口に出すことはできず、同僚は「ふうん」と僕の表情を読もうと顔を寄せた。 無理にでも吐かせようとしてくるのかと身構えたが、彼は意に反して、少し気まずそうに笑ったあと納得したような顔をする。何を考えているのかわからない僕は、「なんだよ」と問いかけた。 「いや……」 普段の態度とは異なり、どうにも歯切れが悪い彼を見ながら考える。自分の知らない何かがあるのか探りを入れようとしたが、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえ「はーい今行きます」と響く声で返事をした。何も答えずそのまま行ってしまおうとするので「あ、おい」と呼び止めると、彼は去り際に顔を向け「今日仕事終わったら、駐車場で待ってるといい。俺も見て驚いたよ」と残して去っていく。 駐車場……口だけを動かして反芻しながら、突然、社長と瑠奈の姿が重なる。いや、ないない、瑠奈だってちゃんと否定したんだ、大丈夫――何度となく頭を振るがそれでも不安は拭えず、その後の仕事に支障をきたすことになったのは言うまでもない。 終業時間を過ぎ、出入り口から流れ出ていく人を眺めるうち、僕は、自分が今こうして柱と車の間に隠れてこそこそしていることが滑稽に思えてならない。いくら同僚から真剣な顔で言われたからといって、からかわれただけという可能性だってある。 それでも僕が、憔悴しきった顔を隠してなんとか仕事を切り上げ、こうして待機しているのは、他ならない、瑠奈と社長の関係について確証を得られるような気がしていたからだった。僕と瑠奈は公私混同を避けようという理由から一緒に帰宅することはなく、平日の間は連絡を取り合うだけのことが多い。そのため僕は、普段瑠奈が誰と、どのように帰宅しているか知らなかった。 しかし、待機し始めてから一時間も経つと、次第にいったい何をしているのかわからなくなり始めた。やはりからかわれただけなのか、よく考えれば、そもそも「誰を」待っていろとも彼は言わなかった。 もう帰ろう――と立ち上がり、リュックを抱え直したとき、「待ってよ!」と聞き覚えのある女性の声が駐車場に反響した。瑠奈だと振り返らなくてもわかった。 僕は再度柱の陰に隠れると、響く声を頼りに耳をそばだてる。盗み聞きだとわかっていても、ふたりの関係を確かめたい探究心には逆らえなかった。 「休暇ってどういうことですか? え、なに実質クビってこと? なんでルナが辞めなきゃならないわけ?」 「わかってくれよ。さっきの会議でみんな不倫だなんだ疑ってるだろう。これ以上ややこしくなる前にルナちゃんには――」 「ルナが辞めたら余計に怪しいだけでしょ。社長だからって何でもしていいわけじゃないから」 言い争う声が駐車場に響く。幸いというべきか、この時間まで残業している者は他におらず、ふたりの話を聞いているのはおそらく僕だけだった。 不倫だなんだ疑っている。つまり不倫ではないってことか、と安堵した時、「だからね」と社長が食い下がる。 「ルナちゃんに辞めてほしいわけではないんだよ。ただ、騒ぎが落ち着くまで君には大人しくしていてほしいってだけで」 「は、なにそれ。ルナ何も悪いことしてないですよね?」 あれほど激しい剣幕で怒鳴る瑠奈の声を聞くのは初めてだった。僕たちはこれまで、怒鳴り合うほどの喧嘩に発展することはなかったので、初めて見る瑠奈の姿に少し動揺していた。 「じゃあわかった。社長、ルナたちほんとに何もないってこと亘くんに説明してくれません? それくらいいいですよね? この仕事失っても最悪次があるけど、亘くんとは絶対に別れたくないんで」 どうして僕は、と思った。少しでも彼女を疑ったことを後悔するとともに、より恋人に対する責任感が強くなるのを感じていた。 「社長も動揺してるってことはわかってます。ルナだってそうだし……確かにルナも、結婚資金貯めたいからって理由で言い寄ったのは悪かったです」 言い寄ったのか、と崩れ落ちそうになる足をなんとか押さえつけ、悪い想像を振り払おうと大きく頭を振る。社長は瑠奈の言葉を聞いて何を思ったのか、俯き加減に考え込んだあと、息を吐きながら「わかったよ」と首を縦に振った。 「今日の会議でいろいろ問題が発覚して、まだ驚いていてね。ひどいことを言ってすまない。彼氏がいたことは初めて知ったけど、わかった、ちゃんと説明の機会を設けるよ」 「じゃあルナたちはここまで。そうしましょう」 コツコツとハイヒールの高い音が響き、少しして、エンジン音のあと過ぎ去っていく車の姿が見えた。話は終わったらしく、一安心した僕が身を翻した先に瑠奈が立っていたので、驚いて「うおっ」と情けない声を上げてしまう。彼女は両手を組んで仁王立ちし、「何してるの?」と言いながら僕を睨んでいる。 「あ、いやたまたま出てみたら瑠奈がいて、その」 「亘くん車じゃないよね? どうせ誰かにおもしろいもの見れるとか言われて来たんでしょ。その日は残業して夜遅かったから、社長脅して送ってもらっただけだよ」 「察しがいいんだね……」 すべてお見通しだった。瑠奈は鼻で笑って僕を見ると、「全部聞いてた?」と問う。 うんと首を縦に振り、「ごめん」と謝った。 「正直ちょっとまだ疑う気持ちあって。確かめようと思って盗み聞きした」 「……まあ、亘くんからしたらそうだよね。いいよ、謝るのはルナのほうだし」 恋人を疑ったことに対して怒られるかと思ったが、瑠奈のしおらしい態度に言葉を失う。彼女は僕の手に自分の両手を添えると、「ごめんね」と言いながら顔を上げる。 「亘くんとの将来のためにって思ってたけど、結局不安にさせただけだったよね」 彼女は彼女なりに考えてくれていたのだと今ようやくわかった。僕たちはあまりにも遠回りをしすぎていた。 ありがとうと自然に口をついて出た言葉に、彼女は顔をほころばせ首に手を回す。僕も抱きしめ返しながら、その時ふと湧き上がる疑問を口にした。 「そういえば、離婚とかいう物騒な話出てたけど、大丈夫なのかな」 「……さあ? ルナわかんなーい」 一社員としての勝手な印象ではあるが、社長夫婦の仲睦まじい姿を以前に見たことがあったので、そんな単語とは無縁のように思っていた。 「あ。ていうかルナ、社長にあんな態度とって大丈夫なの? 結構な勢いで突っかかってたけど」 「平気平気。今までぶりっこしながらなんとかやってたけど、あんな会議になったしどうでもいっかなー」 楽観的に捉える様子から、あまり気に留めていないようだ。確かに彼女なら、万一解雇されてもすぐに次の仕事が見つかるだろう。 「そういえば、横領の件はどうするの? いちおう捜査はしてるみたいだけど」 「ああそうだ。近々呼び出されるだろうな」 仮にも企画会議という場で思わず吐いてしまった一大事、当分の間、僕は上層部からの事情聴取のため拘束を余儀なくされるだろう。 「まあ、亘くんってなんでも溜め込んじゃうとこあるからね。むしろよかったんじゃない? 横領ってめちゃくちゃ犯罪じゃん。黙ってても亘くんが苦しいだけだよ」 飯田さんからこの件で睨まれることは間違いないが、かといって見逃すこともできない問題だ。「そうだね」と頷いて覚悟を決める。 「慌ただしくなるからなかなか会えなくなるだろうけど、僕も頑張るよ」 「えーそれは嫌」 僕たちは駐車場を抜け正面のロビーから外に出る。十一月の気温は肌寒く、大きく空気を吸いこむと体中を冷気が包んだ。 「あ、社長との話し合いはセッティングしなくていいから。何もないことはもうわかったし、社長と一対一とか気まずすぎる」 「えーいいじゃんおもしろそうだし。仲よくなれるかもよ?」 冗談を言う瑠奈を小突きながら、不安ばかりだった自分の感情が変わりつつあるのを感じていた。
@NihonUniversity College of Art