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小波
前日譚――それは愛慕か、執着か 「乾井くん」 ――彼女の優しい声が好きだ。彼女の声はまろみがあって、春の陽光のように暖かい。彼女に名前を呼ばれると、いつだって胸がうるさいくらいに鼓動を鳴らして、心の奥底が暖かくなった。彼女のくすんだスピネルのような瞳も、言葉を紡ぐぷっくりとした唇も、肉欲をそそられるような体つきも、風になびく艶やかな髪も全部、全部全部好きだった。 「飛鳥井さん……あすかいさん」 夢に浮かされたように彼女の名前を音にする。それだけで救われた気分になるのはきっと、彼女が俺にとって最愛の人だから。 飛鳥井さん。飛鳥井、小春さん。大和撫子を体現した花のような人。この島で彼女を知らない人はいないし、同時に誰も彼もが彼女を高嶺の花として羨望を抱えている。世界の中心は彼女で出来ていると言っても過言ではない程、俺の中で「飛鳥井小春」という人は絶対的。 凡庸な人間が彼女に触れていいはずがない。それは俺も例外ではなくて、唯一彼女に触れても許される存在は彼女の家族と、彼女の婚約者であり従兄弟でもあるヒロだけ。 「ぴーちゃん!」 「!実佳ちゃん」 ……余所から来た女。戸田実佳はいとも簡単に彼女の「特別」を手に入れた。俺が欲しくて欲しくて、喉から手が出るほどに欲した場所を、月並み以下の女が。 憎い。俺を見ない彼女が憎い。憎い。彼女の価値もわからずべたべたと触れる余所者が憎い。彼女のことなどどうでもいいくせに、彼女の婚約者として地位が確立されているアイツが憎い。憎くて憎くて憎くて憎くて……、俺以外の手で小春が汚されていくのが耐えられなくて、それならいっそ彼女が堕ちればいいと思ってしまう。 ――嗚呼、優しくて、愛おしくて、憎らしい。麗しの貴女。俺の、カミサマ。どうか、どうか俺に目を向けず、俺意外の者にも目をくべず、貴女を囲う鳥かごの中で一生を過ごして、何の穢れも知らないまま死んでくれればいいのに。それが貴女の幸せで、それが俺の幸せなのだ。 そのためには彼女のことを知らなくてはならない。他の有象無象と同じではだめだ。少しでも彼女と余所者――戸田実佳からの信頼を得なくては、何も始まらない。 「飛鳥井さん」 「……乾井くん」 「戸田さんが、飛鳥井さんの事探してたよ」 「実佳ちゃん……」 「大丈夫?体調が悪いなら保健室から先生を呼んでくるけど……」 「っ、先生は、駄目……!」 「……わかった。何があったのかはわからないけど、戸田さんを呼んでくる。飛鳥井さんにはそっちの方がいいんだよね?」 コクリ、とゆっくり頷いた小春を見て、俺は真剣そうな表情を作ったまま彼女にここに居るように指示し駆け足でその場を去る。まずは他の人間とは違うのだという事を小春にアピールしなくては。……ずっと、彼女のことを見てきたから彼女が必要とすることは察することができる。小春が欲しいのは、彼女の事情を知らない他人であって、彼女を深く知る理解者ではない。それも、余所者がいなくなれば変わるかもしれないけど。 「あ、いた。戸田さん!」 「ぅげ……。い、ぬいくん。私急いでるんだけど」 「『げ』ってひどいなぁ。俺はただ飛鳥井さんが戸田さんを探してたから呼びに来ただけなのに」 「!ピーちゃんが?」 「うん。さっき旧棟の階段で蹲ってるのを見かけてさ。体調が悪そうだったから先生を呼ぼうか?って聞いたんだけど戸田さんの方がいいみたいだったから呼びに来たんだよ」 「ピーちゃん……。教えてくれてありがとう、乾井くん」 「どういたしまして」 そのまま小春のところへと行くものだと思っていた戸田実佳が、少し考えた素振りをして足を止め俺の方へと振り返る。眉間に皺が寄っており、まるで苦虫を噛んだような面白い顔をした戸田実佳は重々しく口を開いた。 「……一つだけ言っておくけど、今日のピーちゃんのこと面白おかしく噂にしたりしたら許さないから」 「心外だなぁ。……俺だって、いくらなんでも人の体調不良を吹聴したりしないさ」 「どうだか」 「信用ないね」 「……信用がないのはアンタだけじゃないけどね」 「……そう」 それだけ言い捨てると戸田実佳はさっさと旧棟の方へ走り去っていった。 ……俺だって、流す噂は考えてるんだけどなぁ。なんて言ったところであの能無しにはわからないか。 実家が八百屋という時点で、俺の周りには常にこの島の噂がついて回る。なにせ小さい島だ。老人どもは口が軽いし、島中に噂が回るのだって一日あれば十分。人の口には戸は立てられないし、俺は何も噂を「本当だ」と言って言いまわったことはないし、色んな人間に話しまわっているわけでもない。……まぁ、口が軽い人間を選んでいないと言ったらそれはそれで嘘になるけど。しかしそれを「うわさ」として受け取り、誇張した伝言ゲームをしていく人間がいるから噂は広がっていくのだ。本州のような娯楽が存在しないからこそ、人はゴシップに夢中になる。加えて、誰だって自分のスキャンダルは流されたくない。――それが、権力のある人間ならなおさら。ヒロのように故意的に俺に関わってくる奴らはそういう人間だ。ばらされたくない秘密があるから、上辺だけでも仲良くしようとする。俺の「噂好き」というレッテルはいわば、この島で暮らすための武器でもあった。 (――でも) 小春は、今日のことで俺に弱みを握られたと感じていることだろう。俺にバラされるかもしれない、と思いながら暮らす小春のことを想うと――ああ、それはなんて素敵なことだろう!一日中、四六時中、彼女が俺のことを考えてくれると言うだけで胸が躍る。 【「ぴーちゃん!」】 【「こはるちゃ……」】 【「……今日はちょっと寄り道して帰ろ!ちょっとくらいなら大丈夫でしょ」】 【「うん……!」】 「……」 イヤホン越しに小春のカバンに以前仕掛けた盗聴器から彼女の声が聞こえる。余計な声も聞こえるし、やはり本物の声には負けるが、それでも今はいい。 ――「乾井くん」 ……彼女の優しい声が好きだ。彼女の声はまろみがあって、春の陽光のように暖かい。彼女に名前を呼ばれると、いつだって胸がうるさいくらいに鼓動を鳴らして、心の奥底が暖かくなった。彼女のくすんだスピネルのような瞳も、言葉を紡ぐぷっくりとした唇も、肉欲をそそられるような体つきも、風になびく艶やかな髪も全部、全部全部好きだった。 いつか、彼女が俺にしか頼れなくなって、俺の名前だけを呼んでくれるようになればいい。そうしたら、きっと俺は……この想いを「愛だった」と認められる気がするから。 その花が実るとき 壱 「チッッ」 今日も繋がらない盗聴器と位置情報が上手く表示されないスマホを荒々しく壁に叩きつける。 ――最近、小春の家に仕掛けた盗聴器の調子が悪い。でも、GPSはちゃんと作動していたし、ここ最近の彼女が湾口を辺りによく散歩をしに行っていたからその付近には監視カメラも設置していた。しかし、そのどっちも使えなくなるとは思っていなかった。 (どっちもそこそこの値段がしたってのに……) やはり、こんな偏狭な島よりは本州の方がいいものが買えるのだろうか。ここから出たいとは、まったくもって思わないけど。 (あの女(:戸田実佳)も馬鹿だ) ふと、卒業してすぐに本州へと渡った余所者のことを思い出す。小春がいるこの場所以上に素敵な世界などないというのに。所詮、余所者は余所者だったのだ。小春も、なんであんな女に心酔していたのかわからない。結局、卒業後は後継ぎとして育てられた彼女とは会えなくなってしまったし。俺が彼女の現状を知るには盗聴器とGPSだけが頼りだったのに、そのどちらも使えなくなるし。ヒロは、小春の婚約者という名誉ある地位を得たにも関わらず彼女の母親につきっきりで小春のことは放置。昔から何を考えているのかわからないやつだったが、ここ数年はさらに小春に対するなおざりな態度が鼻に付くようになった。 「……あ?」 ふと、伸ばした手に紙が当たる。たしか、名前も覚えてないようなクラスメイトの結婚式の案内だったか。欠席なんていえばあっという間にありもしない噂が広まる社会だ。(昔の俺がしていた手段でもあるけど)ありもしない噂をでっちあげるのは得意だが、でっちあげられる気はさらさらないし、「出席」に〇をつけて提出していた気がするが……そういえば、明日だったっけ。 めんどくさいが、今の時間的に明日の準備を始めなくては間に合わない。小春のことは気がかりだが、一度ここは別のことに意識を集中させよう。 重たい腰をあげ、クローゼットに手をかけたところで俺は、はた、と考える。 ――この島に、神社は小春の実家である「飛鳥井神社」しか存在しない。教会なんぞあるわけがないし、必然的に結納を行うなら彼女の実家か、彼女の実家が用意した場所のどちらかだ。今回に関しては、後者。これに関してはもうすぐ当主交代の儀式がある。つまるところ、小春とヒロの結納式が行われるという事だ。そちらの準備も並行して行われていると考えるなら、本殿はそちらの準備に使われているのだろう。 (……それまでに、小春を俺のモノにしないと) 逸る心臓と焦燥感に、歯の奥がギリィと唸る。どのみち、明日になれば久しぶりに本物の小春を目にすることができるのだ。今はまず、その準備をしよう。 成人式ぶりに出したスーツの皺をとり、自分が一番魅了的に見えつつ、主役を食わない程度のお洒落を模索する。……あぁ、今から小春と会うのが楽しみだ。 弐 「……」 いない、いない、いない!小春がいない!おかしい、彼女がこの場にいないなんてこと、あるはずがないのに! なるべく目立たないよう、眼鏡の内から彼女を探す。主賓側――いない。神前――いない。ヒロの隣――いない。……こんな時までアイツは小春の母親に付いてるのか。あと、確認していない場所と言えば、来賓側だが、彼女がそんな場所に居るだなんて思えない。 一度、人から離れた場所で全体を見通した方がいいかもしれない。そう思い、今居る場所から離れようと辺りを見渡せば、視界の端でもだもだとしている女が写る。 当時と変わらない平凡な容姿。憎たらしくて、忘れたくても忘れられない女の顔。一瞬、自分の顔が歪むのを自覚し、取り繕うように笑みを深めた。……本当に腹立たしいことこの上ないが、今小春の居場所を知っている可能性が高いのは三人。あの女とヒロ、それから小春の母親だ。その三人の中で一番取り入れそうなのは現状、戸田実佳しかいない。 俺は、さも久しぶりに会った旧友との再会を喜んでいるような表情をたずさえて戸田実佳の元へと駆け寄る。 「戸田さん、久しぶり」 「……久しぶり」 相変わらずよく顔に出る奴だ。と、吐いて出そうになった悪態は飲み込んでありきたりな言葉を紡ぐ。 「そういえば、ピーちゃんは?」 島出てからあんまり連絡とってないんだけど、ここ来てる?と首を傾げた戸田実佳に、当てが外れたか、と内心独りごちる。 「いや、今日は(:・・・)見てないかな」 見てたらそもそもお前なんかに話しかけるわけないだろ。なんて、外聞があるから絶対に口を滑らしはしないけど。ヒロなら何かしら知っているかもしれないが、アイツは、意図的に俺に小春のことを話さまいとしているから聞いたところで――例え知っていたとしても口を開きはしないだろう。――いや、そうか。俺が聞きだせないなら、他の人間に聞き出してもらえばいい。 「……もしかしたら粕谷なら知ってるかも」 もしかしたら、なんて保険を付けて言えば戸田実佳はすんなりと頷いた。それを見た俺は、戸田実佳が口を開く前にその場から離れる。もうこれ以上、戸田実佳から得られる情報は何もない。 「――お!廉斗じゃん」 タイミングよく話しかけてきた同級生に、表情を作り変え、名前を呼ぶ。 「中川。久しぶり」 「久しぶりって程でもねーだろ」 「そういえばそうか。成人式ぶりだもんね」 「廉斗がさっき話してたの誰?」 「さっき……あぁ、戸田さんだよ」 「戸田……戸田ってあの戸田!?」 「……そう、あの」 少しだけ声を落として、目を配せながら言えば、彼はあからさまに声を落胆させた。 「まじかー。本州に出たって聞いたからもう帰ってこないもんだと思ってたわ」 「中川、飛鳥井さんのこと好きだったもんね」 「ちょぉっ!ここで言うなって!粕谷に目ぇ付けられたくねぇよ……」 「あはは、ごめんごめん。……ところで、その飛鳥井さんの事なんだけどさ」 「?」 「今日飛鳥井さんのこと、みた?」 「今日?あー、そういえばみてねぇかも……」 「それなら、ここ数日はどう?」 「ここ数日……数日か……。あ、そういえば一週間くらい前だけど港で見たわ」 「え?港?」 「おう。ほら、ウチの家漁業してるだろ?最近……っていっても一年位前かな。余所者が来てさ、職がないってんでうちで雇った人が居んだよ。乾井も知ってるんじゃね?」 「一年って言うと……あぁ、あの外人か」 「そうそう。グレイブさんな。あの人と飛鳥井さんが話してるのなら何度か見たぜ」 「……それっていつごろからとか、わかる?」 「んー、大体一、二か月前あたりかな」 「一、二か月前……」 ……その時期は、丁度盗聴器とGPSの接続が悪くなった頃だ。いや、でも家の中に男が入ってくるような素振りはなかった。監視カメラにだって、彼女が余所者の外人と話している姿は一度だって写っていなかった。……いや、でも。卒業してからふさぎ込むようになった小春が、湾口付近へと足を運んでいた時点で疑うべきだった。 「そっか、ありがとう中川」 「いいってことよ!……ところで廉斗、雪子の事なんだけど……」 「あぁ!……不倫のことは黙っててあげるから安心しなよ」 「……助かる!」 「そんな、大げさだなぁ」 まぁ、俺が言わなくても奥さんはもう知ってると思うけど。 そんなことはつゆとも知らない彼は笑顔で奥さんの元へと戻っていく。あぁ、馬鹿は生きるのが楽そうで羨ましいことだ。お酒も入っているのだろう。軽い足取りで去っていく背中に手を振れば、後ろから誰かが近づいてくる音が聞こえる。 「乾井」 「……粕谷」 「昔みたいにヒロでいいのに」 「……いつの話だよ」 ヒロのことを「ヒロ」と呼んでいたのは随分と前……それこそ、中学生の時の話だ。ヒロがまだ、小春の婚約者ではなかった頃。……純粋に、友人だった頃。 「まあいいけど。ところで、今暇?」 「人様の結納式で暇も何もないだろ。それに、お前は忙しいんじゃないの。次期当主様?」 「そうかも。うん、忙しくないってことはないよ」 「それなら尚更、話す事なんて――」 「お前になくても僕はある」 「……あっそ。じゃあ、手短に話せよ」 「うん。……でもここじゃあれだしさ、ちょっと外に出ようよ」 式ももう終わるみたいだしね、とヒロが笑う。……コイツに話しかけられた時点でこれ以上、この場にとどまっても他の人から話を聞くことはできないだろう。俺はヒロの言葉に仕方なしに頷いた。 参 少しして現れた戸田実佳と、見知らぬ老輩の姿に、ヒロに嵌められたのだと気付いく。曖昧な返事をして、ヒロとの会話を聞いて出てきた「海」という単語に、やはりこいつは何か知っていたのではないかと疑心が積もる。 「……なぁ、粕谷。本当に何も知らないのか?」 自分の声が、震えているのを自覚しながらヒロに問う。そんな俺の様子など、コイツは興味の欠片もないのだろう。飄々とした調子で語り、あまつさえ小春のことを蔑むような言葉に神経が張り裂けそうなほどの怒りがこみ上げた。 「咲葵さん咲葵さんって、お前咲葵さんのことばっかだな」 「そりゃあ、幼いころからずっと一緒だったし」 「……もういいよ。俺は俺で探すから」 怒りで思考が真っ白に染まる。あぁ、そうだ。ヒロはずっとそうだった。いつだって小春の母親しか見ていなくて、アイツの世界にはあの女しかいない。 とりあえず、行くべき場所は決まっていた。小春の居場所に関して、共通して出てきたのは海だ。数日前……数週間単位で前から小春が通っていた場所。それから、小春が直近で話していたという駐在と外人。彼らから話を聞くのが一番早いが……仮に、彼女を誘拐したのだがあの二人なら口を割るようなことはしないだろう。 見た目から怪しいあの駐在は、この島について知り尽くしている。下手に追い詰めて逃げられたらたまらない。 あの様子なら、戸田実佳も小春の行方を探っているのだろう。ならば、駐在もろともはアイツらに任せればいい。 慣れない革靴に、足が痛みを訴えるのを感じながらも俺は海へ向かって走る。段々と磯と潮の臭いが強くなっていくのが、ひどく不快だった。 (まずは、小春がよく行っていた道を辿ろう) この島に住んでいる人間に取って、海とは疎ましいものだ。外部の象徴であり、ほとんどの人間がこの島から出ずにその生涯を終えるからこそ、要らないものとして必要最低限は近寄らないようにしている場所でもある。 だからこそ、小春がそそのかされて誘拐されたなら。この場所は犯人にとって格好の場所のはずだ。 一つの証拠も見逃さないように、目を皿にしながら海岸を歩く。目が痛くなるほどの鮮やかなこの青が、俺はずっと嫌いだった。小春に出会う前の俺はずっとこの場所で泣いていた。その思い出がダイレクトに蘇るこの場所は、島の連中とは違う意味合いの拒絶感を俺に植え付けている。 (……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃ――) 「……?あれ、は……」 不意に、テトラポッドの上で何かが光る。ここから距離があるにもかかわらず、その光は強く、俺は釣られるようにその光の方へ足を向ける。岩肌が険しい海辺を、俺は必死に駆けた。 「……ぁ」 近づいた先、覗き込んだ光に俺は思わず声をこぼす。テトラポッドの上で光り輝いていたモノは、ガラスだった。ちゃちで、ガラクタにも満たないガラス玉。それが両目に嵌められたクマのキーホルダーは、かつて俺が小春にあげたキーホルダーだ。 「は、はは、は」 千切れてぼろぼろになったソレに、俺は全て遅かったのだと悟る。ずっと、小春は大事にしていてくれたのだ。こんなゴミのような思い出も、ずっとずっと抱えて生きていた。義理だったのかもしれない。はたまた、貰った相手のことなど忘れていたのかもしれない。彼女は俺以外からもお揃いの品を貰っていたから、忘れられていたとしても仕方のないことだ。……でも、それでも。物を大事にする心優しい彼女が、こんなゴミのようなものでも大事に使っていてくれた彼女がこんなところにコレを捨てるはずがない。なのに、このキーホルダーはボロボロだった。 ――小春は、きっともうこの島にはいない。なんなら、生きているかすら定かではないのだろう。ああでも、そんなこと(:・・・・・)、もうどうでもいいか。小春がいない世界のどこに価値を見出せばいいのか、俺にはわからないから。 「小春、こはる、おれの、かみさま」 ――「乾井くん」 記憶の中の彼女が、優しい声で俺の名前を紡ぐ。 彼女だけが「俺」を見てくれた。彼女だけが俺に手を差し伸べてくれた。 彼女の優しい声が好きだった。彼女の声はまろみがあって、春の陽光のように暖かくて。彼女に名前を呼ばれると、いつだって胸がうるさいくらいに鼓動を鳴らして、心の奥底が暖かくなった。彼女のくすんだスピネルのような瞳も、言葉を紡ぐぷっくりとした唇も、肉欲をそそられるような体つきも、風になびく艶やかな髪も全部、全部全部好きだった。 「すきだったんだ」 本当に。心の底から、彼女のことが好きだった。彼女だけが、希望だった。彼女の声の一つだって聞き逃したくなかった。彼女のことを全て知っていないと気が気でなかった。それ程までに、俺は俺を見てくれた「飛鳥井小春」と言う人が大好きだった。愛していた。 「あぁ、あああああああああああああ!!!!」 涙は出ない。ただ、喉が張り裂けるほどの叫びが、波に消されていく。 「こはる、こはる、こはる……」 何も思えない。思わない。もう、この世界に俺の生きる価値はない。 それでもただ、ひとつだけわかるのは。俺はもう一生小春に会うことができないのだという絶望だけで。そんな、黒くにじんだ絶望がずっと胸の奥でくすんでいた。
@NihonUniversity College of Art