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Rin
先輩警察官・佐々木ゆうき けたたましい内線電話のベルが交番の気怠い沈黙を破ったのは、夜間パトロールと検問を終え、ようやく一息つこうかという時刻だった。受話器を取る前から、どうせろくでもない報せだろうという予感がする。 「こちら県警本部。コインランドリー内にて、何やらもめごと。至急、現場へ」 司令官の淡々とした声。もめごと、ね。受話器を置くと、新品の制服に着られているような新人、二日市が、緊張した面持ちでこちらを見ていた。 「どうしましたか、先輩」 「コインランドリーで、もめごと。酔っ払いか、痴話喧嘩か。まあなんだっていい」 私は立ち上がりながら、帯革を叩く。 「二日市を育てるための新人教育にはちょうど良い、行こう」 「は、はい!」 教科書通りの返事をして慌てて装備を確認する背中を見ながら、一足先にパトカーに乗り込む。こんな真夜中に、コインランドリー。あの辺りは田んぼばかりで、目の前に錆びたバス停の看板がある以外何もない。壊れた防犯カメラもそのままなのだから、面倒なことになっていなければいいが。エンジンをかけると、古びた無線機のノイズに混じって、外からゲコゲコと蛙の鳴き声がうるさいほどに響いていた。 現場のコインランドリーは、田んぼ道の闇の中に、そこだけが切り取られた舞台のように煌々と浮かび上がっていた。午前1時過ぎ。店の前にはパトカーの赤色灯に照らされて、一人の男が紫煙をくゆらせている。 「久木、という男性からの通報。一応、頭に入れておいてね」 「久木……了解しました」 車を降りると、生温い空気と微かなタバコの匂いが混じる。男は私たちを一瞥すると、実にかったるそうに、また手元のジッポに視線を落とした。カチ、カチ、と金属音が響く。通報者にしては、妙に落ち着いている。いや、落ち着きすぎている。ガラス戸の向こうには、数人の若者。洗濯機を指さして半泣きの女、その隣で狼狽する男女、そして隅の方で、先ほどの通報者であろう男――久木――をじっと見つめる、いかにもな風体の少女。 「どうされましたか」 二日市が、まだ場数を踏んでいない硬い声で切り出す。それを待っていたかのように、久木もだるそうに中へ入ってきた。 「み、み、見てください!」 浦原巫女と名乗った女が指さす洗濯機の中を覗き込み、思わず顔をしかめた。これはひどい。洗濯物にびっしりと灰色の毛が絡みつき、原型を留めないほどただれたネズミの死骸が、虚な目でこちらを見ていた。単なるいたずらにしては、悪質すぎる。 「ご関係をお伺いできますか?」 二日市が、被害者の浦原、友人の茉莉、その彼氏の照也、と順に視線を向け、教科書通りに関係性を確認していく。私はその間、壁に寄りかかり、腕を組んで室内にいる全員を値踏みするように観察した。 被害者の浦原。ショックを受けてはいるが、どこか現実感がない様子。友人の茉莉。彼氏の腕に怯えたようにしがみついている。その彼氏、照也。恋人を守ろうとする、分かりやすい正義感。そして、隅の二人。通報者の久木高雅と、萩谷まつり。久木は終始気だるげで、ジッポを弄ぶか、携帯を睨んでいる。私がじっと視線を送っていることに気づいたのだろう、一瞬だけこちらを捉えた。すぐに逸らされたが、その目には面倒くささ以外に、妙な冷静さが宿っている。私の距離が少し近いことに気づいたのか、彼は小さく舌打ちをした。隣の萩谷は、明らかに未成年。久木に隠れるようにして、こちらの様子を伺っている。 「では、こちらのお二人は?」 私が顎をしゃくって久木たちを示すと、浦原が震える声で答えた。 「こいつらが洗濯機の使い方教えてくれて、私はコンビニに……その間にやられたんだと思います」 明確に、二人を犯人だと示唆する言葉。まあ、そう思うのが普通だろう。こんな時間に、こんな場所にいる不良二人組。絵に描いたように怪しい。 「……チッ」 久木が悪態をつき、再びジッポを弄び始めた。その態度が、さらに疑いを深くさせる。 「このコインランドリー、防犯カメラが壊れているのはご存じでしたか?」 二日市が、基本的な確認事項を口にする。 「ええ、大家さんから聞いてます。だから、早く直してほしいって言ってるんですけど……」 浦原が答える。犯人は、それを知った上での犯行。物証が乏しい状況に、二日市の顔も険しくなる。新人にはよくあることだ。手掛かりが見えないと、すぐに焦る。 「茉莉さんと照也さんは、どうしてここに?」 「巫女から電話があって……車で迎えに来たんです。そしたら、こんなことに……」 茉莉がか細い声で答える。その瞳は潤み、心底友人を心配しているように見える。照也はそんな彼女を庇うように、より一層強く抱きしめた。 「洗濯機に動物の死骸を入れるなんて、悪質ないたずらか、強い怨恨による犯行か……。浦原さん、最近誰かと揉めたり、恨みを買うような心当たりは?」 私が本題を切り出す。この手の陰湿な犯罪は、十中八九、怨恨だ。 「いえ、特に……。私、こっちに越してきたばかりですし、大学の友達くらいしか知り合いもいなくて……」 浦原は俯いて考え込むが、心当たりはないようだ。 「そう……」 捜査は振り出しに戻った。手掛かりはゼロ。息が詰まるような時間が流れる。蛙の鳴き声だけが、この異常な状況を無視して、やけに大きく聞こえていた。 「……あのさぁ」 沈黙を破ったのは、意外にも、それまで黙って久木にくっついていただけの萩谷だった。 「なんか、犯人ってパーカー着てたんじゃない?」 唐突な言葉に、全員の視線が萩谷に集まる。 「どういうこと?」 二日市が訝しげに問い返す。 「いや、なんとなく。こういうことする奴って、顔とか隠しそうじゃん? ドラマとかでもよくあるし」 子供じみた発言。こんな蒸し暑い夜にパーカーだなんて、ドラマの見過ぎだ。二日市も真面目に取り合う気はないようだった。だが、萩谷は続けた。 「パーカー……そういえば、さっき変な人がいたかも」 「本当か!?」 二日市が、獲物を見つけたように身を乗り出す。 「うん、久木と外に出たとき。なんか、グレーのパーカー被った人が。すぐどっか行っちゃったけど」 萩谷の言葉に、久木が「あ?」と怪訝な顔をする。 「そんな奴いたか?」 「いたって! ほら、あたしが『あの人なんか怪しくない?』って言ったじゃん! 久木はネイルがどうとか言ってたけど」 久木は面倒くさそうに頭を掻く。 「その人の顔は?」 「見てない。フード深く被ってたから」 「そうか」 またしても手掛かりは途絶えた。二日市はがっくりと肩を落とす。だから言わんこっちゃない。 「あ」 萩谷が、何かを思い出したようにポンと手を打った。その目は爛々と輝き、悪戯が成功する直前の子供のそれに似ている。 「そういえば!」 萩谷はそう叫ぶと、おもむろに自分のスマートフォンを操作し始めた。周りの人間は、彼女の突飛な行動をただ呆然と見守っている。 「あった! これ!」 差し出されたスマートフォンの画面には、少しブレた動画が再生されていた。夜のコインランドリーの外から、内部を撮影したものだ。 「お前、また盗撮してたのかよ……」 久木が呆れたように呟く。 「だって怪しかったんだもん! こういうのが後で役に立つかもしれないじゃん!」 得意げに胸を張る萩谷に、私も二日市も半信半疑で画面を覗き込む。暗くて画質は粗いが、蛍光灯に照らされた店内と、洗濯機の前で何かをしている一人の人物が映っている。確かに、グレーのパーカーのフードを目深に被っている。だが、顔はフードの陰になっていて全く見えない。 「……おい」 それまでかったるそうに動画を眺めていた久木が、低い声で呟いた。彼の視線は、画面の一点に釘付けになっている。 「この動画、ちょっと拡大できねぇか」 「え? うん、できるけど」 萩谷は言われるがままに、画面をピンチアウトして拡大する。 「ほら、ここ」 拡大された映像には、パーカーの袖口から覗く指先がはっきりと映っていた。長く、手入れの行き届いた爪。そこに施されているのは、淡いピンクをベースとした繊細なジェルネイルだった。 「このネイル……」 久木はそう呟くと、ゆっくりと顔を上げた。その視線は、部屋の隅で震える一人の人物へと向けられる。私も、その視線を追った。照也の腕に守られるように立っていた、茉莉だ。彼女は、はっとしたように自分の手を見つめ、慌てて背中の後ろに隠した。しかし、もう遅い。誰もが、彼女の指先を飾るデザインが、動画のそれと寸分違わず一致していることに気が付いてしまった。 「茉莉……?」 照也が信じられないといった声で、恋人の名前を呼ぶ。茉莉は顔を青ざめさせ、カタカタと震え始めた。 「違う……私じゃ、ない……。ほらこれ、駅前のデザインが選べるやつで! だから、同じデザインの人は他にもいるはずで」 か細く否定するが、隠した両手、泳ぐ視線、その全てが彼女の犯行を物語っている。 「どうして……」 浦原が、絶望と裏切りに彩られた声で呟いた。 「俺は、茉莉が何をしていても味方だ」 照也が肩を抱いた手を放さず、自供を促す。その言葉が、最後の堰を切った。 「……なんで、巫女ばっかり」 ぽつり、と茉莉が呟いた。 「てる君は、いつも巫女の話ばっかり! 昔はこうだった、あいつはああいう奴だからって! 私はいつもその輪の外にいるみたいで……!」 感情を吐露し始めた茉莉の瞳から、大粒の涙が次々と溢れ落ちる。 「大学でもそう! 巫女はいつもみんなの中心で……誰からも好かれてる。私なんて、巫女の隣にいる、ただの友達の一人……。てる君が巫女の幼なじみだって知った時、すごく嬉しかった。でも違った!」 茉莉の悲痛な叫びが、コインランドリーに響き渡る。 「二人が仲良く話しているのを見るたびに、胸が苦しくなって……。てる君が私の知らない顔で笑うのが、許せなかった。巫女がこっちに越してくるって聞いた時、もうダメだと思った。このままじゃ、てる君が巫女に盗られちゃうって……!」 嫉妬。結局は、それか。 「……ごめんなさい……ごめんなさい……」 その場に泣き崩れる茉莉を、誰も慰めることはできない。照也は言葉を失い、浦原は静かに涙を流している。二日市も、どう対応すべきか戸惑っている。新人教育には、少し後味の悪い結末だった。だが、感傷に浸っている暇はない。私は壁から背を離し、静かに茉莉の肩に手を置いた。 「……詳しい話は、署で聞かせてもらうわね」 先程までのからかうような響きを消し去り、ただ静かで、事務的な声を出す。それが、私の仕事だ。 連行されていく茉莉の後ろ姿を、残された者たちが見つめている。煌々と光る蛍光灯が、彼らの間に横たわる、どうしようもなく気まずい空気を照らし出していた。パトカーに乗せる直前、ふとコインランドリーを振り返る。久木は、もうすっかり興味を失くしたように、ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけていた。萩谷の口が小さく動いて見える。あの二人もまた、何か問題を抱えているのかもしれない。 「先輩……」 「二日市。報告書の書き方、覚えてるか。この手の事件はな、動機が一番面倒なんだ」 蛙の鳴き声だけが、何もかもを知っているかのように、夏の夜に響き渡っていた。私は、湿った夜気ごと、大きく息を吐き出した。