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クムーニョ 空集合
その日、庵野は富野と些細なことで喧嘩をした。洗濯物の出し忘れだったか、食器の洗い残しだったか、風呂場の換気忘れだったか。発端こそ思い出せないものの、積もりに積もった不満の応酬合戦になった末、庵野は家を飛び出したのだ。行き先を決めぬまま、少しでも家から遠い場所へ行きたくて電車に乗り込む。いくら他のことを考えようとしても富山が最後に放った一言が頭から離れない。「あかり、最近二次元の推しばっかじゃん。俺じゃなくてそいつと付き合ってんの?」 もう、本当にうるさい。できることならとっくにそうしてるよ。思い出すほどイライラが募って、イヤホンの音量を上げる。 聞こえてくるのは耳心地の良い、落ち着いた低い男性の声。富野とは似ても似つかない、余裕のある大人の声色だ。 声の主であるミナトは、今私が1番夢中になっているゲームに出てくる人だ。 ああ、ミナトに会いたい。画面越しじゃなく、直に触れ合いたい。会って話がしたい。別にこの世界に来てほしいわけではない。こんな世界に来てほしくない。私が画面の向こうへ行けたらいいのに。車内では100万円が消えたと宣う男がやかましく叫んでいる。面倒事に巻き込まれたくはないから、まるで外の音なんか聞こえていませんと言うようにその叫びに無視を決め込み続ける。それにしても、100万円か。そんな大金一体どこへ消えるっていうの?ああ、もしかして別の世界に一枚一枚羽ばたいて逃げ出してしまったのかもしれない。この世界に嫌気がさして。だとしたら私も連れていってくれたらいいのに。そして、その大金でミナトと幸せな生活を送れたらいいのに……。そんな馬鹿げた事を考えながら、庵野は耳元から聞こえてくる彼の声に身を委ねた。