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いちご も
ベンチに腰を下ろすと、プラスチックの温度が膝裏に伝わる。冷たくも温かくもない。すぐ横の自動販売機をぼんやりと眺める。宮野は何か飲もうかと思い、バッグのファスナーを開けたが、すぐにやめた。 来年には大学受験を控えている。母親からは塾の費用のことで、「無駄にならないようにね」と釘を刺されている。受験費用や入学費用のお金が現実的に必要なものとなれば、母親の脅迫じみた警告は勢いを増すに違いない。母親に、大学に行きたいと伝えた時、「国立大学でないと進学はさせられない」と言われた。わかったと言った宮野だが、頭の中には、無理の二文字が大きく浮かんでいた。宮野の校内での成績順位は、下から数えたほうが早い。 今日も、いつもと同じように塾の自習室にこもり勉強をしていた。勉強が嫌いなことと、できないことはイコールではない。宮野の場合、勉強が嫌ではない。ただ、覚えたことが翌日には頭の中から消えている。努力ではとても賄えない最悪な脳みそだ。大学に行けるのなら、どこだっていいのに。お金さえあれば、もっと気楽に生きられたのではないだろうか。 宮野はバッグの中から単語帳を取り出し、赤シートが挟まっているページを開いた。 【commit】 意味 (罪などを)犯す ふと思った。 罪にならずに、お金を手に入れる方法は無いだろうか。 宮野の思考を邪魔するように、電車の到着を知らせるアナウンスが鳴る。次が最終電車だ。宮野は立ち上がり、停車位置を示すホーム上に移動した。 電車が到着し、ドアが開いた。正面の座席に男が座っている。ひどく疲れた顔で、バッグを抱えながら眠っている。発車を知らせるベルに、宮野は列車の中へと足を早めた。 ドアが閉まり、電車がゆっくりと速度を上げる。宮野を合わせ、車内には六人しかいない。座ろうか迷ったが、結局、眠っている男の前に立つことにした。宮野は単語帳を開き、英単語を頭に中で呟いた。 ページをめくろうとしたところで、正面に座る男が何かを呟きながらもぞもぞと動き出した。バッグの中身を確認しては、床を見渡し、またバッグの中を見る。男の隣に座るスーツを着た男は、そんなことを気にする様子も無く、じっと下を向いている。 「あの、ここ、誰か来ませんでした」 男は、すぐ横に座るスーツ男に言った。 「すみません、見てないです」 少し間を空けて、スーツ男が答える。独り言を呟きながら鞄の中を探っている。単語に集中できない。宮野が号車を移動しようとしたその時、男が口を開いた。 「皆さん、ちょっといいですか」車内の空気が変わる。「ここに封筒が入っていたはずなんですけども、見てないですか?」 車内の視線が男に集まる。だが、誰も答えない。隣に座るスーツ男が、渋々答える。 「知らないです」 「本当に見てないですか?」 「はい」 「あなた、いつからここに座ってますか?」 「えっと、朝からずっと乗ってます」 「封筒、知らないですか?」 「はい」 宮野は、淡々と繰り返される会話をぼうっと眺めた。会話の中から、封筒を探す男の方が葛城、スーツの方が伊藤という名前らしい。 「あなた、女の子、君さ」 女の子? 「ちょっといい?」 あ、私か。 「ここに、百万円が入った封筒があったの。見てなかった?」 「知らないです」 「いつからここに立ってるの」 「ついさっき乗ってきました」 「ついさっき乗ってきた時、この鞄に封筒入ってたの見た?」 「見てないです」 「このおじさん、僕の鞄の中見てなかった?」葛城が一瞬、視線を宮野から伊藤に移す。 「見てないです。どういう」 「何? 何か無くし物?」 どういうことですか、という言葉を飲み込んだところで、宮野の背後、葛城が座る座席の反対側に座っている誰かが言った。振り返ると、派手な身なりの女が座っていた。よく見なくとも、身につけているものがブランド品だと分かる。 「いつから座ってます?」葛 葛城は、目の前に立つ宮野のせいで女がよく見えないのか、顔を横に出して言った。 「三駅前」女がそっけなく答える。 その後、葛城は、伊藤にした質問を女にも繰り返した。女も封筒など見ていないらしい。 「あなたが無くしたんじゃないの?」女がため息混じりに言う。 「私が無くしたんじゃない」 「じゃあ誰が取った?」 佐伯が呆れたような表情で言うと、葛城は反抗するように事情を説明した。要するに、電車に乗るまでは確かに鞄の中にあった、百万円を入れた封筒が、居眠りをしている間に消えたらしい。 「隣に座ってたこのおじさんと、目の前に立ってるこの女の子くらいしか思い当たらないでしょって」葛城はさらに、封筒を盗んだ犯人を言い当てるかのように、宮野と伊藤を順に指差した。 「僕は違います」 「あんた、おじさん怪しいんだよな」 「いやいややってないです」 伊藤の、「やっていない」と葛城の、「あんたが怪しい」の言い合いが続く中で、ついに葛城は、車内にいる皆に向かって、鞄の中身を見せろと言い出した。この提案には流石に、宮野、伊藤、女の他、会話に入っていない二人の乗客も顔をしかめた。 宮野は思った。もし封筒が、誰かに盗まれたとして。ターゲットにした人物が偶然、百万円持っていて、さらにそこから、百万円の入った封筒だけを抜き取る。そんな器用なことできる? これ、状況的に一番怪しいの、おじさんじゃない? 「おじさん、お金を隠してるんじゃないの?」 宮野が呟くように言うと、言葉を被せるようにして葛城が言い返した。 「俺、何も入ってないよ」 葛城は宮野に向かって、中身が見えるように鞄を突き出した。確かに、中に封筒らしきものは入っていない。 「おじさんから見せてもらいましょう」葛城が伊藤に向かって言う。 「大事な書類が」 「入ってねえだろお前に」 「いやちょっと機密書類が」 「ないだろ。朝から電車乗ってる奴」 「今会社の帰りで」 「どこの会社勤めてんの」 「えっと、それは」 「勤めてないんだよ。朝から電車乗ってる奴は会社勤めてないの」 「ちょっと待って」 「そんな挙動不審で」 葛城に会話の間を詰められ、困惑する伊藤。追い討ちをかけるように、宮野と女は、「怪しい」と声を上げる。 「鞄を、見せろってことだな」葛城が、自分の言葉に頷くように言う。 「あ、はい」 伊藤は観念したのか、そそくさと鞄のファスナーを開け、中身を見せた。 「エロ本が入ってましたね」 葛城がぼそりと言った。宮野は鞄の中身を覗く。エロ本が入っている。最悪だ。 「逆に申し訳ない。申し訳なかったですね」葛城は、深く俯いたままの伊藤を無視して、今度は女に向かって鞄の中身を見せるよう言った。 女は拒否した。それは、ただ見せるのが面倒臭い、というよりも、見せたくない理由を隠すような拒否の仕方だった。 「その高そうな鞄、見せてくださいよ」葛城が煽るように言う。「おかしいよね? だって若いのにいいカバン持ってる奴って大体、底が悪いでしょ」葛城は言いながら、宮野の顔を見た。 「怪しいと思います」葛城の視線に、思わず同調してしまった。 女は考え込むように目を閉じ、黙った。しばらくしてから、ゆっくりと口を開いた。 「私は、たくさんの人から愛されてる」 「概念みたいな話をされていますね」葛城が真面目な顔で言う。 でも、何を言おうと結局、鞄を見せない限り疑念は晴れないのだ。 「早く、鞄を見せれば解決する」宮野は佐伯の方を振り返り、言った。 「あなた見せてよ」 「私?」葛城の言葉に、吊り革を持つ手に力を入れ、葛城の方に向き直った。 「参考書しか入ってないですけど」 宮野は言いながら鞄の中身を葛城に見せた。当然、封筒は入っていない。葛城はつまらなさそうに鼻息を吐いた。 「私、今日会った人から百万円もらってるのよ」女が口を開いた。 偶然にしては出来すぎている佐伯の発言に、車内がざわつく。佐伯の説明によると、愛人から、自分と一緒に人生を共にしてくれと言われ、もらったお金らしい。意味がわからない。会話に興味が湧かず車内を見渡していると、佐伯の一つ隣に座る外国人の、キャリーケースが目に入った。キャリーケースには鍵が付いている。お金を隠すには最適だ。 「これね、お名前よろしいですか」 「佐伯」女が言う。 「佐伯さん。私ちょっと今閃いたんですけど、そのお金を私に譲るっていうのは」 「おじさん、キャリーケース。大きいよ」宮野は、葛城の声を遮るように言った。 葛城はキャリーケースをじっと見ると、伊藤の肩に手を置いた。「お前が聞け」ということは、言葉がなくともわかる。 「罪を認めさせれば、警察に突き出すことはしない」葛城が外国人を睨みながら言う。 「それはやめてください」 葛城と伊藤が見つめ合う。沈黙。伊藤が先に目を逸らし、視線を外国人に向ける。 「ハロー」伊藤の下手な英語が車内に響く。外国人が伊藤を睨む。 結局、外国人のキャリーケースの中には、アニメのグッズが詰まっているだけだった。わかったことといえば、外国人の名前がジョナサンで、アメリカ人観光客だということだけだ。 しばらくして、ジョナサンと伊藤の鞄から白い封筒が見つかったが、ジョナサンの方は英語で書かれた手紙、伊藤の方は退職届が出てきた。伊藤はどうやら、リストラをされたらしい。 その後、葛城が座る座席側のドアに立っていた女にも事情を聞いた。名前は庵野。彼氏と喧嘩をして家を出てきたらしい。鞄の中には、小銭入れ程度の荷物しか入っていなかった。その状況が、宮野は疑問だった。感情的に家を飛び出したとはいえ、お金も持たずに終電に乗って、どうするつもりなのだろうか? お金がなくて一番困る状況にいるのは、庵野なのでは? 「彼氏と喧嘩して、帰る場所はあるんですか?」宮野が聞くと、庵野は不機嫌そうな顔をした。 「だから、突発的に出てきただけだし」 「でも、小銭入れしか」 「スマホのクレカで払えばいいし」 「そっか」宮野は納得した。大人は決済の手段が多い。 「やっぱり、おじさんが怪しい」宮野は言いながら葛城を見下ろした。 宮野は葛城に対して、お金が欲しいから賭けに出たんだと責めた。 「一か八か百万円欲しくてこんな大立ち回りしてるとするなら、本当にやばいですよ?」葛城が捲し立てる。 「本当にやばいんじゃない?」宮野がそっけなく言ったところで、佐伯が声を上げた。 「これ、お金じゃない!」佐伯の手には、愛人からもらった百万円の茶封筒が握られている。 佐伯が中の札束を抜き取る。札束が繋がって出てくる。よく見るとそれは、何重にも折り畳まれた紙だった。泣き喚く佐伯を見て思わず吹き出した。もう、わけがわからない。車内のアナウンスが流れる。次が終点だ。 「もう警察行きましょう」葛城が、ため息混じりに言う。 伊藤以外の皆が渋々、頷く。警察に行く提案は、これが二回目だ。一度目に葛城が警察に行こうと言った時、ジョナサンが、「飛行機のフライト時間がある」と言って提案を拒んでいた。 「いや、それは」伊藤が苦い顔をする。 伊藤は一度目の時も、頑なに警察を拒んだ。家族にリストラの件を知られたくないと。葛城は伊藤の反対に、何も言い返さなかった。答えの出ない問題に向き合う気力など、もう誰にも残っていない。車内にいる誰もがぐったりとしている。終点に近づくにつれ、声を出す者はいなくなった。 電車は終着駅に着いた。皆がドアの前に立つ。宮野のすぐ横に立つ葛城の顔は、ひどく疲れ切っている。生気を失った顔とは、まさにこれのことかもしれない。 ドアが開き、皆が降りる。ホームに降り、ふと後ろを振り返ると、伊藤が電車から降りるところだった。首元のネクタイを緩める伊藤の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。ぎこちないが、どこか誇らしげな笑み。 この一連の騒動が葛城の賭けだったのなら、失敗に終わっただけのこと。でも、もし葛城に損が生じている状況だったら。 皆が階段に足をかける中、宮野は伊藤の前に立つ。 「え、何ですか?」 電車の中では、それぞれの情報が飛び交い、冷静な判断ができない状況だった。電車の外に出て、冷めた脳みそに、再びエンジンをかける。あの状況で葛城から何かを取れたのは、こいつしかいない。 一か八かだ。もしも、伊藤が取っていなくたって、私に失うものは何もない。 「伊藤さん」 「あ、え、はい?」 得るのは百万円か、勘違いか。 「警察が怖い?」伊藤の顔が強張る。 横目で、葛城の姿が見えなくなったことを確認する。 「私に半分くれるなら、黙っててあげるよ」 これは、罪じゃないはず。