私の前にもう一匹猫がいた。姿形がよく似ている。猫としては華奢で、縄張り争いには向かない。すっとした身体つきで静かな家猫だった。人の気配が遠い。すぐ後ろにいて牟田が頭を抱えている。しかし陽だまりに人影が透けているようなそんなぼんやりとした向こう側にいた。

 互いに声を出さないまま、向き合う。声も仕草もわからないので、自身との違いを見つけるのも難しい。

 生まれる。誕生日おめでとう。そして死ぬ。死んだ。消える。消え——。なかった。

 この店に来た時の記憶が堆積して、隠していた何かを思い出す。生まれる前の記憶だった。「あなたがここに来たから、ミルクが生まれた。だから誕生日おめでとう」

 羽根のような柔らかい声がタオルの向こう側から聞こえてきた。ハッピーバースデートゥユー。私は確かにミルクだった。ミルクとして飼われ、純粋な愛情のうちに死んだ。その時の自分では言葉には器用にまとめることができなかった。

 死んだ世界には何もなかった。無いという認識がそこにあって無もあった。だからそこからもう一度自分を作った。なんでもう一度猫になろうと思ったのかはわからない。ミルクとして生まれた人生がそんなに幸せだったような気もしない。確かに牟田に拾われたことは幸運だったが、それより前といえば餌にも碌にありつけないような乞食だった。

 猫としてやり直すなら、野良猫として生きていける強い身体だろうか。そんなことよりやりたいことがある。どうして牟田はあんなに自身に愛情を向けたのか。それが愛情だと分かったのはそれよりも後のことだった。親から受けるものとは違う無制限の、無量の愛情。それが何なのか知りたい。言葉が必要だ。人間のような細やかなコミュニケーションを聞き分けられる認識能力がいる。

 そうしてもう一度私は生まれた。誕生日おめでとう。言葉が分かれば人の愛情の正体が分かると思った。どんな利点があってそうしているのか、どこからその能力を覚えるのか。けれど無理だった。愛情の源には果てがない。そこが水源だと分かってもどこからともなく湧いてきて、また辿っていかないといけない。そしていつの間にか愛情と暴力を取り違えることもある。

 後何回生まれ直したら、この温かさに気付けるのだろう。人に触れるたびにそう思う。撫でられる時も、餌を手渡しする時も、そして傷つける時も。やがてミルクは野原の奥に消えた。ぼんやりとしていた人の気配がはっきりとした。

 日差しが雲に隠れて、降り注いだ陽だまりが一瞬だけ姿を消す。次に生まれ変わる時は人になろうか。いや、でももう少し猫でいてもいいかもしれない。少なくとも店長に何か愛情めいたものを与えられるまでは。

 坊主のなくなった乗り物を探しにこの場所を後にする。

 季節はすっかり春だ。

5 

 なぜ今になって、外に出ることができたのだろう。首輪は嫌いだ。人の足と猫の足は違う。身を寄せ合っていても、それぞれに流れている「時間」の感覚が違うから、同じように生きていることなんてできないと今でも思う。

 昨日猫と人が同じような時間を過ごす夢を見た。猫の時間を人が過ごす夢。ミルクが牟田の母親で、牟田はちゃんと子離れをしていた。場所は牟田の家の弊だった。ミルクの爪が牟田の額に生傷をつけて、牟田の瞳に血が流れた。牟田は泣いた。人みたいに泣いた。瞳に張り詰めた血と涙が頬から落ちて、僅かに潮の匂いがした。静かに人々の雑踏が迫ってくる。血に濡れた涙が種になって、周囲を森に変えていく。その瞬間が焼き付いて目が覚めた。

 首輪を付けられて、いくところなどないというのが本音だ。牟田の家にはいけない。あの黒猫に匂いを覚えられている。傷つきに縄張りに踏み込む猫などいない。諦めることができれば、少なくとも生きていくことはできる。では、叶わないと知っていて、違うと知っていて、店長を傷つけている自分は——。

 駅から離れているのに、うやうやとした人から発せられる雑音が今日は一段と近く感じる。坊主がいて、店長がいて、牟田が背中を付いてくる。そこにいるんですか。と聞けばずっといるんですと返ってくる。そういう足音だ。時間は違うのに。言葉は伝わらないのに。それらに首輪をつけて、紐をつけて、従えさせる。このリードは店長が無理矢理に作った自分との繋がりだ。

 夢で見た森が近い。立ち入り禁止の看板を抜ける。彼らも付いてくる。人の足ではあまり踏み入ることのないような獣道をわざと、選ぶ。それでも付いてくる。進めば進むほどリードの感触を首元に感じる。森の奥へ進むたびに、歪な時間の繋がりが浮かんでくる。

 森の開けた場所に出た。ここは夢の世界にもない場所だ。新緑の匂いが近い。春めいたひだまりがここだけに流れてきて、日向の小さな湖があった。

 人の足音が消える。声が消える。消える——。

 影が背伸びをして、草原の地面に身体を預けている。リードの影だけが静かに伸びて張り詰めた時間を揺らしていた。

 するりと首輪が抜ける。湖の雫が自分の身体に集まって静かな明かりになった。夢の世界の森はそこにあった。

 冷えたケージの底に預けた身体に日差しが差し込んだ。朝の匂い。微かに聞こえる外の世界の音。店長が私をケージに入れてから一周間が経とうとしていた。

 私がいなかったからと言って、別に変わったことはない。時折いつもの場所にいない自分のことを口にするものもいたが、店長が理由を話してそれで会話が終わる。正直に理由を話しているのだから、店長に非はないし別に糾弾されるべきことでもない。

 誰かの足音が近付くたびに、その足音の姿や形を思い浮かべた。そして知っている足音が知らない音調になって来ることを何よりも恐れた。知らない人の足音よりも、そっちの方がずっと恐ろしいことを私は知っている。何か心変わりがあったと知っている。

 「心変わり」があったときの人の行為は大抵猫にとって利点にはならない。病院に行かされたり、慣れないどこかに連れて行かれたり、お風呂に入れさせられたり、何かを決意しようとしていつもの自分とは違う気配を纏っている。それが心変わりの足音なのだ。

 店長はこの心変わりを隠すのが壊滅的に下手だった。上手く装っているつもりでも、音を殺すという行為が基本的にできない。そういう意味ではもう一人の従業員の方が隠すのは上手だ。もし店長が野良猫だったら、自分よりも生きていけなかっただろう。実際そういう猫はいる。全部の猫がうまく立ち回って生きられるほど、野良猫の社会は甘くできていない。

 何人かいた自分の兄弟や姉妹の中に店長によく似た猫が何匹かいた。そういう猫は大抵親離れが遅い。だから足音や気配の感情を消すことや他に頼らない生活に慣れていない。中でも最後まで母猫にひっついていた猫は親離れしてすぐに近くを縄張りにする黒猫に甘えて、そのまま襲われて死んだ。

 猫の子供と人の子供の違いはそういう愛情の十分さもあるだろう。牟田ぐらいの年齢はおそらく猫で言うともう親離れをしていないといけない時期なのだ。人には猫の一生くらいの猶予期間がある。おまけに死と言う恐怖もだいぶ遠く離れた場所にある。だから猫に比べると時間感覚に疎くなる。

 しばらくケージの中でじっとしていると、店長がお店の扉を開ける。ケージに入ってからはなるべく刺激しないためか、餌を置くとそそくさとケージを閉めるので脱出する隙もない。店長が何を言っても抑揚のない、うやうやとした声に聞こえた。元々ある距離感が猫と人の適切な距離だとは思えなかったが、その時間が長くそして居心地が良すぎたのだ。そのせいで、いつの間にか何か特別な状況になった時、人に対して必要以上に攻撃的になってしまう。

 餌を持って来るたびに私は店長の手を噛みついたり、引っ掻いたりした。数を重ねるにつれて、傷だらけになる手が怯えて引っ込んでいくスピードが速くなる。まるで母猫の鋭い目つきに怯える子猫のように。

 それでもひつこく手に噛みついた。それからケージの網が削れて壊れるまで、噛み付くこともあった。そう言うことでしか距離感の変化を表現することができなかった。猫が一番飼い主に言葉を伝えられる方法の一つは攻撃なのだと実感しつつあった。しかし店長は餌やりも水やりもやめなかった。いつかは捨てられて、外の世界にたどり着けるだろうとなんとなく考えていたがその日はいつになっても来なかった。

 ケージから見ていても、店長は日常生活に支障をきたすほど手を傷だらけにしていた。店員と話しながらでも、皿を洗っている時に声が軋んでいたし、ケージに近付くと絆創膏だらけの手をいつも気にしている。

 ケージから出る時もリードをつけられて、店の限られた範囲でしか動けなかった。いつの間にかキャットタワーが置かれていたがそれには興味持てない。結局店長と自分の関係は変わらないのだから。夜になると少しずつリードを削る生活が始まった。また店の影が浮かんでくる。朝は近い。店長が店を出る前に飲んだ珈琲の残り香が、生爪に纏わりついていた。

3回目

 3

 他では滅多に感じ得ない、鼻を刺すような匂いがする。身動きが取れないほど、身体が痛い。目を開けるために瞼を少し振り被らないといけなかった。

病院は嫌いだ。何より、今自分がいるこの仄暗い囲いが好きではない。ここにいると、猫ではない他の動物の悲鳴が鼓膜の奥へと入り込んでくる。それらがここでの痛みを思い出させるのだ。よく店長はここに来ると「マルのためだから」とさも優しげに言う。

 身体中の皮膚が裂けている感触が確かにする。動けない代わりに耳を澄ませる。密やかな寝息がいくつも重なって、人の足音がそれらを掻き消した。病院に来た経験がある動物は皆すべからく怯えている。それが怒りになるのか、恐れになるのかは動物によってそれぞれだ。

 手慣れた手が、自分を抱き上げる。されるがままだと職員も嫌な顔をしない。いや抵抗しても頑なに声だけは優しい。しかし手には徐々に力が籠る。傷がなくても痛いほどなのに、今の身体でそんなことをされたらと思うと考えたくもない。どう言う風にしたら表情や声と手の力をそこまで綺麗に分けられるのだろう。もしそれができれば、自分はあの黒猫に一太刀浴びせることができたかも知れない。覚えたふりをして、爪を忍ばせて、目でも、頭でも身体でもぶつけてあとは逃げればいいのだ。

 抱き上げられている間もずっと同じ匂いが鼻先を掠める。何か生物から生み出されているような気配をまるで感じられないのが、この匂いの特徴だった。しかしコーヒーやミルクとは違う。ミルクもコーヒーも元々は生き物から生まれているのだから、それはそうなのかも知れない。しかしもっと物質的な違いを感じる。かろうじて分かるのは、この匂いの中に死臭が混じっていることだ。

 猫の死臭はそれ自体が強烈な匂いを放つのもそうだが、ずっとそこに残り続ける。店に来る前にいた檻の中はいつもその匂いに満ちていた。あとは糞と尿の空気。そこに確かにいた別の猫の欠片がそうしてじっとりと、壁やブランケットに滲んでいた。店長の元に転がり込んでから知ったがあの場所は猫を最終的に殺す場所だったらしい。

 自分のように傷つけられたりはしない。人には人の死なせ方がある。それがあの匂いの源だった。だから死臭の匂いには人の手に息を潜めている死の感覚を感じる。全く敵意なくまるであやすような顔で、簡単に猫を殺せるのではないかとその匂いはそんな恐れを抱かせる。

 撫でられるのは別にどうとも思わない。昔は触れられるたびに店長の腕に爪を立てていたが、不思議とあの場所にいると徐々にそういう気持ちが薄れていく。そしてまた今日その場所に自分は帰ってきた。 いつものように扉で離してはもらえなかった。目を細める。店長のこの手の感触はさっきの病院の職員の手と似ている。その先にあるのはやっぱり、なんでもないような顔で、猫を殺す時の手だ。大きなケージの扉が閉まる。その瞬間に強引に抜け出そうとしたが、店長は強引にケージに私を押し込んだ。店長の爪が頬を掠めて、僅かに血が滴る。初めて店長が自分に傷をつけた。しかし店長は何も知らない顔で、今日も開店の準備を始めた。

2回目

 

 外に出た分、お腹が空いていたが私の分のキャットフードは心なしか量が少ないように感じた。店長が与える餌はなんでも健康志向らしく、前のものより味が薄い。口が動いているはずなのに実際は人に出されるグラタンやコーヒーの方がお腹に溜まるような気がした。

 外はいつの間にか夜に近付いている。コートを着たサラリーマンが少しだけこちらに顔を向けたがすぐに何か手元を見て、歩き出した。

 結局私はここに戻ってきた。あのまま牟田に連れて行かれていたらどうなっていたのだろう。店長と古谷にひどく怒られた牟田はかなり反省したので、それはもう再び起こり得ない未来だ。でも、こうして飼い猫でいると今の時間がおざなりになって、そういう存在しない未来のことばかり考えてしまう。

 牟田の家は、わからない。しかし人間にも猫と同じように親子があると聞く。猫とは違って、追い出しにかかることがなく自然と離れていくものらしい。牟田は恐らく同じ女であるルリよりも若い。言動はさして変わらないが、なんとなく撫でられる時の肌の質感とか、つがいを作ろうと店長に迫る時の焦燥感からそう感じる。

 牟田は私が亡くなった「ミルク」という猫に似ていると言っていた。つまり私は牟田の下で「ミルク」という見知らぬ猫になる予定だったのだ。店長はマルという名前で私を呼ぶが彼女にとっては自分が「ミルク」だということだろう。

正直言ってその呼び方に大差のようなものは存在しない。坊主が言っている「ヘルガー」も同じだ。要は呼ばれている名前に年季が入っているかどうかだけ。別にマルになってもミルクになってもいいが、それ以前に私は猫であり、猫として辿ってきた過去が自分と他の猫や野良とを分けている。それさえ分かっていれば、猫にとって呼び名はどうでもいい。

牟田の亡くなった猫。ミルクを思い浮かべる。自分と風体が似ていると、なんとなく思考も似通っているのではと考えてしまう。ミルクは一体どんな暮らしをしていたのだろう。人に飼われている猫と私は会ったことがない。猫は犬と違って散歩をしない。基本的な一度飼われると基本的な生活は家の中で終始してしまう。

すぐに空になって下げられた皿を見送り、乾いた口元を隣に置かれていた水で湿らせる。ぼんやりと水面を眺めていると、そこにもう一人の私。ミルクがいて、じっとこちらを見ている。「マル」になった自分を見ている。

 ミルクのことを頭の中で描く。しかし納得がいかない。自分と同じはずなのに、それを描きだそうとする要素が足りなかった。第一に私はミルクの住処を知らなかった。住処を知らないのだから、餌場も生き方も知っているはずがない。でも、知らないならこの目で見て知っておけばいい。

 水面に映るミルクから視線を外し、外を見る。コーヒーの匂いが薄い。閉店までは多分もう少しだ。ゆっくりと腕を身体にしまい込んで、私はもう一度外に出るための時間を伺い始めた。

 真夜中の外は静かで好きだ。耳が凪いでいる。昼間に牟田が私を連れて向かっていた場所が、丁度駅から離れていく方向だった。

 昼間の雑踏や車の残響が遠のき、明かりが徐々に消えていく。残っているのは前を歩いている牟田の足音だけになった。気付かれないように、家々の間を通る石垣に飛び移る。少しだけバランスを崩したがすぐに野生の頃の勘を取り戻した。

 石垣を渡って家の間を通り抜けた分、私は牟田よりも少しだけ先回りする形で家に辿り着いた。牟田が家の前について牟田と少し顔が似た女が出迎える。母親だろう。つまり牟田はまだ親離れをする前の若さだった。

 牟田が完全に家に入ったのを見て、牟田の家の塀に飛び移る。一階には白いカーテンがかかっており、その隙間からしか中の様子を見ることはできない。その範囲にはおおよそミルクの痕跡はなかった。

 あともう少しどこかにあれば。そう思っていると、後ろから急に唸るような鳴き声を聞いた。野良猫だ。暗闇に紛れやすい黒い図体が軽やかな細い身体を描く。右目の縁に大きな生々しい傷が二つ。恐らくかなりいい場所を勝ち取ったのだろう。そしてここは間違いなく、この野良猫の縄張りだ。

 猫の争いには必ず間合いというものがある。しかしその猫は問答無用とばかりに距離を詰めてくる。恐らく今しがたこの場所を手に入れたばかりで気が立っているのだ。チラリと爪を見ると、そこにはまだ他の猫の血が付着していた。

野良猫に言葉はない。あるとすれば身体に刻み込む怒りのサインだけだ。つまりどういう風に私が言葉を送ったとしても、この黒猫は隙と見てさらに間合いを詰めてくる。弊の奥。暗い場所へじりじりと私は後退りをしていく。そうしているうちにようやく、私はミルクを見つけた。そこにあったのはキャットフードを入れた小さな白いマグカップだった。

あんな小さな餌を食べて生きていけるのだろうか。私はきっと生きていけない。けれど複数回に分けてなら量は変わらないだろう。その方が満足感もある。あと数秒で私は襲われる。そう知っていても、私はやはり存在しない未来のことを考えていた。まるでそちらの方が現実で今が悪夢の中にいるような気がした。

黒猫の爪が一瞬の軌跡を描く。夜明けはまだずっと先だった。

LIVE小説2023 Start

 

ライブ小説 初回

「いらっしゃいませ」

 店長の声は誰に対しても、仄かに温かい。本当に温度があるわけではないけれど、人の声は猫の声と違う。感情の色合いが細かくて、それがきっと温度のように感じのだろう。

「あ、ルリちゃんじゃないかこんにちは」

 オス。ではなく男性らしい低い声。猫の性別は体格や股の間の違いで判別しないといけない。しかし人はわかりやすい。

「店長〜〜〜!!!! 会いたかったです」

 おおよそは声が高いか低いかだ。この身体が一瞬反応する高い声は女性だ。

「猫ちゃんかわいいねー」

 「ルリ」と呼ばれた女性とは別の声。これも女性だ。二人目の女性はいつも一風変わった装いをしている。たまに店長は彼女の服のことを「制服」と呼んでいた。

「ちょっと待ってちょっと待って、優しく触って!」

 制服の女性が床にいる私の頭を触る。冷たい。声なんかじゃなくて、しっかりと形のある温度だ。それなのに妙に心地よい場所を知っていて、少し気持ち良いのが悔しい。

「とりあえず二人とも、ご注文は?」

 私から離そうと、店長が注文を取る。「え〜でも気持ちよさそうだし」と言いながら、手は離れた。

「ルリは〜、グラタン1つくーださい」

「ミルクたっぷりのコーヒーくださぁい」

 ルリは制服姿の女性の注文を書き終えた店長に「今日もたくさん写真撮らないといけないんだから!」と言いつつバックから何かを取り出す。あれはスマホという。スマートフォンか携帯も同じだ。詳前から店長や多くの客が持っているから、知っている。一部の機能は遠く離れた相手と話すことだ。それ以外にも色々と使えるようだが、詳しいことは知らない。

「コーヒー、確か砂糖二つだったよね? かしこまりました」

「お願いしまぁす」

 その会話を聞いていたのか、カウンター側で従業員が動いている。

「コーヒー古谷くん持っていって、ん。ありがとう」

「わぁい! コーヒーありがとうございまぁす」

その人の名前は古谷という。店長の名前は椎名という。もう少し何かついていた気がしたが、忘れた。本来猫は名前を覚える必要がないし、彼らにそこまで名前を必要とはしない。そんなことをしなくても、匂いや声で見分けられるからだ。

「古谷さんばっかり店長としゃべってズルい!」

「古谷くんはバイトだから仕方ないよ……」

 そう言いながら店長は湯気が立つグラタンを置く。

「ありがとう〜店長」

 そしてルリは取り出したスマホから紙が潰れたような音を鳴らし始めた。

「ちょっと、この猫邪魔なんだけ! 映り込まないでくれる!?」

 その声は鋭くて冷たい。温度以上に感触のある声だ。

「あれえ? 猫ちゃんも飲みたいんですかぁ?」

「もう、どっか行ってよ!」

 ひとまず彼女の視界から外れて、制服の女性の席へと歩く。

「ああ! 待って、マルに飲ませないで!」

 私の口元にコーヒーのカップを注いできたのを店長がそう言って制した。

「でも飲みたそうじゃないですかぁ」

「待って待って、コーヒーは飲ませちゃいけないんだよ。ほら、マル怖かったね。カウンター座っていて」

 時折、店長は私のことを「マル」と言う。でも猫にはやっぱり名前の必然性がわからない。だから反応も鈍くなってしまう。結局私は店長に両手で促されるまで、自分が移動すべきなのか分からなかった。

「えー、コーヒー飲むねこはちょっとカワイイかもぉ」

「ほらぁ、カワイイってこの人も言っているのにぃ」

 二人に気押されて、店長は横分けの茶髪を掻く。すると扉が開く音がして、全員の視線が一点に集まった。

「賑やかで何よりですねえ、みなさん。こんにちは、店長。いつもので」

「は、常連ぶんなよ! なにこの坊主」

 背中を立てた(実際には立ててないけど)ルリが呟く。さっきまでのルリとは全くの別人だった。ルリはいつもそうなのだろうか。でも、縄張りを犯されたかのように威嚇めいた声を上げるルリの方がより親近感が湧く。

「いらっしゃいませ。かしこまりました。マルゲリータピザですね」

「南無阿弥陀仏。木更津さん、汚い言葉を使ってはなりませんよ」

 店長の言葉の後に「坊主」と呼ばれた男はまるで気にしない顔で、ルリに言葉を返す。坊主の声も店長に似ている。店長にもルリにも変わらない。仄かに温かい温度がある。

「こんにちは〜坊主さぁん」

「牟田さん、こんにちは。学業には勤しんでいますか?」

 さっきの制服の女が挨拶をする。それに挨拶を返して、坊主はキッチンの方を見ながら席に座った。

「古谷君ピザ持ってってくれる? ありがとう」

「坊主のくせに気取ってピザとか食べんてんじゃねー」

 相変わらず坊主を威嚇するルリを見ていて、なんとなく今のルリの方が親近感の湧く理由がわかった。今のルリは野良猫らしいからだ。野良猫のように自身のままならないことに攻撃し、この店というテリトリーを犯されることを何よりも嫌っている。しかしルリが野良猫と違うのは店長やさっき「牟田さん」と呼ばれていた女子高生のように一定の縄張りに入っていい人がいて、その人達には攻撃的にはならない。

「カオスだ……。こんなにカオスだから新規客が増えないのかな……」

 こちらのやりとりを見ていた店長がぼそりと呟く。

「うーん、まぁまぁですかね! この前は国語のテストで40点取りましたぁ」

「南無阿弥陀仏。古谷さん、ピザありがとうございます。美味しそうです」

 運ばれてきたピザの前で坊主は牟田さんの返答に相槌を打っている。しかし話していた牟田はすぐに視線を変えた。今度は私に向いた。

「ねこチャァン降りてきてくださいよぉ。猫じゃらしですよぉ。ほらほらぁ。あ、降りてきそう!」

 牟田の興味がこちらに向くと、今度はルリが坊主の元に歩み寄ってきた。

「え、ピザめっちゃ可愛いんですけどー! ちょ、お坊さん、写真撮らせてくれます?」

「かわいいなぁ前飼ってた猫みたい。あぁ〜行かないでよぉぉ」

 牟田が一瞬だけほどけた表情を浮かべる。

「店長には負けるけどー、猫ちゃんもわりかしカワイイ顔してんじゃん? こっちおいでよーほれほれ」

「牟田さん、猫を飼っていたんですか?」

 店長が牟田の表情に寄り添うように言葉を繋げる。

「まぁ、先月死んじゃったんですけどねぇ」

「ああ……」

 ルリが俯いた牟田と店長を見て「ちょっと重い話だったんですけど……」と感想を言った。

「南無阿弥陀仏、その猫も涅槃に至っていることでしょう」

「これぞお坊さんの出番ですね。マルは渡しませんよ。僕の大事なパートナーですので」

「そんなぁ」

 ねはん。知らない言葉だ。それで、また自分の名前に反応が遅れてしまう。パートナーとは猫でいうオスメスの組み合わせみたいな、それに近い表現だ。人間の組み合わせには色々な表現があって難しい。友達とか、夫婦とか、恋人とか。それぞれに細やかな違いがある。子猫を産んで、餌を食べすぎないくらいまで育てるだけの役割ではないらしい。

「ネハン? 解説お願いします」

 牟田が自分と同じように言葉を繰り返す。

「難しいし言葉、よくわからん! てか、パートナー、、??」

「あっ」

 またルリは野良猫になる。今度縄張りに入ったのは自分だった。だが、決して不注意だったわけではない。

「え、ちょっと、猫のくせに店長のパートナー気取ってんの?」

「涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナと言います。すべての煩悩がなくなり、安らぎ、悟りの境地に入ることです。 お釈迦さまも涅槃に至っているのですよ。私も将来は涅槃に至ることを目標にしています」

 もう坊主に視線を向ける人は誰もいない。時折空気にしないように目を配っても潜在的な意識は自分に全て集まっている。こういう時、私はどうしたらいいのかわからなくなる。大勢の注目を浴びないように生きるのが猫だからだ。まだ自身の不注意で注目が集まったなら今から逃げればいい。けれど縄張りに進入したわけでも、餌を横取りしたわけでも、メスを取り合っているわけでもない。

「この猫、もうむっちゃんが貰っちゃえば? ルリ、賛成〜」

「う、ううん……ルリちゃん、マルも大事にして……ね?」

 店長が心配そうに牟田を見る。しばらく牟田は考え込むように、していたが突然私を持ち上げた。反応しようと思えば避けられたような気がする。けれどその両手が撫でる挙動とほとんど変わらず、不覚をとった。

「猫ちゃんは私のパートナーになるんですよぉ」

 冗談のような真剣のような牟田の聞いたことのない歪んだ声が聞こえる。

「そ、それはやめて……!?」

 そういう間に牟田は店の外へ走り去った。久しぶりの外だった。身体を動かしているわけではないのに、いつもより強い風が尻尾の先をかすめていった。