ライブ小説 初回
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「いらっしゃいませ」
店長の声は誰に対しても、仄かに温かい。本当に温度があるわけではないけれど、人の声は猫の声と違う。感情の色合いが細かくて、それがきっと温度のように感じのだろう。
「あ、ルリちゃんじゃないかこんにちは」
オス。ではなく男性らしい低い声。猫の性別は体格や股の間の違いで判別しないといけない。しかし人はわかりやすい。
「店長〜〜〜!!!! 会いたかったです」
おおよそは声が高いか低いかだ。この身体が一瞬反応する高い声は女性だ。
「猫ちゃんかわいいねー」
「ルリ」と呼ばれた女性とは別の声。これも女性だ。二人目の女性はいつも一風変わった装いをしている。たまに店長は彼女の服のことを「制服」と呼んでいた。
「ちょっと待ってちょっと待って、優しく触って!」
制服の女性が床にいる私の頭を触る。冷たい。声なんかじゃなくて、しっかりと形のある温度だ。それなのに妙に心地よい場所を知っていて、少し気持ち良いのが悔しい。
「とりあえず二人とも、ご注文は?」
私から離そうと、店長が注文を取る。「え〜でも気持ちよさそうだし」と言いながら、手は離れた。
「ルリは〜、グラタン1つくーださい」
「ミルクたっぷりのコーヒーくださぁい」
ルリは制服姿の女性の注文を書き終えた店長に「今日もたくさん写真撮らないといけないんだから!」と言いつつバックから何かを取り出す。あれはスマホという。スマートフォンか携帯も同じだ。詳前から店長や多くの客が持っているから、知っている。一部の機能は遠く離れた相手と話すことだ。それ以外にも色々と使えるようだが、詳しいことは知らない。
「コーヒー、確か砂糖二つだったよね? かしこまりました」
「お願いしまぁす」
その会話を聞いていたのか、カウンター側で従業員が動いている。
「コーヒー古谷くん持っていって、ん。ありがとう」
「わぁい! コーヒーありがとうございまぁす」
その人の名前は古谷という。店長の名前は椎名という。もう少し何かついていた気がしたが、忘れた。本来猫は名前を覚える必要がないし、彼らにそこまで名前を必要とはしない。そんなことをしなくても、匂いや声で見分けられるからだ。
「古谷さんばっかり店長としゃべってズルい!」
「古谷くんはバイトだから仕方ないよ……」
そう言いながら店長は湯気が立つグラタンを置く。
「ありがとう〜店長」
そしてルリは取り出したスマホから紙が潰れたような音を鳴らし始めた。
「ちょっと、この猫邪魔なんだけ! 映り込まないでくれる!?」
その声は鋭くて冷たい。温度以上に感触のある声だ。
「あれえ? 猫ちゃんも飲みたいんですかぁ?」
「もう、どっか行ってよ!」
ひとまず彼女の視界から外れて、制服の女性の席へと歩く。
「ああ! 待って、マルに飲ませないで!」
私の口元にコーヒーのカップを注いできたのを店長がそう言って制した。
「でも飲みたそうじゃないですかぁ」
「待って待って、コーヒーは飲ませちゃいけないんだよ。ほら、マル怖かったね。カウンター座っていて」
時折、店長は私のことを「マル」と言う。でも猫にはやっぱり名前の必然性がわからない。だから反応も鈍くなってしまう。結局私は店長に両手で促されるまで、自分が移動すべきなのか分からなかった。
「えー、コーヒー飲むねこはちょっとカワイイかもぉ」
「ほらぁ、カワイイってこの人も言っているのにぃ」
二人に気押されて、店長は横分けの茶髪を掻く。すると扉が開く音がして、全員の視線が一点に集まった。
「賑やかで何よりですねえ、みなさん。こんにちは、店長。いつもので」
「は、常連ぶんなよ! なにこの坊主」
背中を立てた(実際には立ててないけど)ルリが呟く。さっきまでのルリとは全くの別人だった。ルリはいつもそうなのだろうか。でも、縄張りを犯されたかのように威嚇めいた声を上げるルリの方がより親近感が湧く。
「いらっしゃいませ。かしこまりました。マルゲリータピザですね」
「南無阿弥陀仏。木更津さん、汚い言葉を使ってはなりませんよ」
店長の言葉の後に「坊主」と呼ばれた男はまるで気にしない顔で、ルリに言葉を返す。坊主の声も店長に似ている。店長にもルリにも変わらない。仄かに温かい温度がある。
「こんにちは〜坊主さぁん」
「牟田さん、こんにちは。学業には勤しんでいますか?」
さっきの制服の女が挨拶をする。それに挨拶を返して、坊主はキッチンの方を見ながら席に座った。
「古谷君ピザ持ってってくれる? ありがとう」
「坊主のくせに気取ってピザとか食べんてんじゃねー」
相変わらず坊主を威嚇するルリを見ていて、なんとなく今のルリの方が親近感の湧く理由がわかった。今のルリは野良猫らしいからだ。野良猫のように自身のままならないことに攻撃し、この店というテリトリーを犯されることを何よりも嫌っている。しかしルリが野良猫と違うのは店長やさっき「牟田さん」と呼ばれていた女子高生のように一定の縄張りに入っていい人がいて、その人達には攻撃的にはならない。
「カオスだ……。こんなにカオスだから新規客が増えないのかな……」
こちらのやりとりを見ていた店長がぼそりと呟く。
「うーん、まぁまぁですかね! この前は国語のテストで40点取りましたぁ」
「南無阿弥陀仏。古谷さん、ピザありがとうございます。美味しそうです」
運ばれてきたピザの前で坊主は牟田さんの返答に相槌を打っている。しかし話していた牟田はすぐに視線を変えた。今度は私に向いた。
「ねこチャァン降りてきてくださいよぉ。猫じゃらしですよぉ。ほらほらぁ。あ、降りてきそう!」
牟田の興味がこちらに向くと、今度はルリが坊主の元に歩み寄ってきた。
「え、ピザめっちゃ可愛いんですけどー! ちょ、お坊さん、写真撮らせてくれます?」
「かわいいなぁ前飼ってた猫みたい。あぁ〜行かないでよぉぉ」
牟田が一瞬だけほどけた表情を浮かべる。
「店長には負けるけどー、猫ちゃんもわりかしカワイイ顔してんじゃん? こっちおいでよーほれほれ」
「牟田さん、猫を飼っていたんですか?」
店長が牟田の表情に寄り添うように言葉を繋げる。
「まぁ、先月死んじゃったんですけどねぇ」
「ああ……」
ルリが俯いた牟田と店長を見て「ちょっと重い話だったんですけど……」と感想を言った。
「南無阿弥陀仏、その猫も涅槃に至っていることでしょう」
「これぞお坊さんの出番ですね。マルは渡しませんよ。僕の大事なパートナーですので」
「そんなぁ」
ねはん。知らない言葉だ。それで、また自分の名前に反応が遅れてしまう。パートナーとは猫でいうオスメスの組み合わせみたいな、それに近い表現だ。人間の組み合わせには色々な表現があって難しい。友達とか、夫婦とか、恋人とか。それぞれに細やかな違いがある。子猫を産んで、餌を食べすぎないくらいまで育てるだけの役割ではないらしい。
「ネハン? 解説お願いします」
牟田が自分と同じように言葉を繰り返す。
「難しいし言葉、よくわからん! てか、パートナー、、??」
「あっ」
またルリは野良猫になる。今度縄張りに入ったのは自分だった。だが、決して不注意だったわけではない。
「え、ちょっと、猫のくせに店長のパートナー気取ってんの?」
「涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナと言います。すべての煩悩がなくなり、安らぎ、悟りの境地に入ることです。 お釈迦さまも涅槃に至っているのですよ。私も将来は涅槃に至ることを目標にしています」
もう坊主に視線を向ける人は誰もいない。時折空気にしないように目を配っても潜在的な意識は自分に全て集まっている。こういう時、私はどうしたらいいのかわからなくなる。大勢の注目を浴びないように生きるのが猫だからだ。まだ自身の不注意で注目が集まったなら今から逃げればいい。けれど縄張りに進入したわけでも、餌を横取りしたわけでも、メスを取り合っているわけでもない。
「この猫、もうむっちゃんが貰っちゃえば? ルリ、賛成〜」
「う、ううん……ルリちゃん、マルも大事にして……ね?」
店長が心配そうに牟田を見る。しばらく牟田は考え込むように、していたが突然私を持ち上げた。反応しようと思えば避けられたような気がする。けれどその両手が撫でる挙動とほとんど変わらず、不覚をとった。
「猫ちゃんは私のパートナーになるんですよぉ」
冗談のような真剣のような牟田の聞いたことのない歪んだ声が聞こえる。
「そ、それはやめて……!?」
そういう間に牟田は店の外へ走り去った。久しぶりの外だった。身体を動かしているわけではないのに、いつもより強い風が尻尾の先をかすめていった。