2回目

 

 外に出た分、お腹が空いていたが私の分のキャットフードは心なしか量が少ないように感じた。店長が与える餌はなんでも健康志向らしく、前のものより味が薄い。口が動いているはずなのに実際は人に出されるグラタンやコーヒーの方がお腹に溜まるような気がした。

 外はいつの間にか夜に近付いている。コートを着たサラリーマンが少しだけこちらに顔を向けたがすぐに何か手元を見て、歩き出した。

 結局私はここに戻ってきた。あのまま牟田に連れて行かれていたらどうなっていたのだろう。店長と古谷にひどく怒られた牟田はかなり反省したので、それはもう再び起こり得ない未来だ。でも、こうして飼い猫でいると今の時間がおざなりになって、そういう存在しない未来のことばかり考えてしまう。

 牟田の家は、わからない。しかし人間にも猫と同じように親子があると聞く。猫とは違って、追い出しにかかることがなく自然と離れていくものらしい。牟田は恐らく同じ女であるルリよりも若い。言動はさして変わらないが、なんとなく撫でられる時の肌の質感とか、つがいを作ろうと店長に迫る時の焦燥感からそう感じる。

 牟田は私が亡くなった「ミルク」という猫に似ていると言っていた。つまり私は牟田の下で「ミルク」という見知らぬ猫になる予定だったのだ。店長はマルという名前で私を呼ぶが彼女にとっては自分が「ミルク」だということだろう。

正直言ってその呼び方に大差のようなものは存在しない。坊主が言っている「ヘルガー」も同じだ。要は呼ばれている名前に年季が入っているかどうかだけ。別にマルになってもミルクになってもいいが、それ以前に私は猫であり、猫として辿ってきた過去が自分と他の猫や野良とを分けている。それさえ分かっていれば、猫にとって呼び名はどうでもいい。

牟田の亡くなった猫。ミルクを思い浮かべる。自分と風体が似ていると、なんとなく思考も似通っているのではと考えてしまう。ミルクは一体どんな暮らしをしていたのだろう。人に飼われている猫と私は会ったことがない。猫は犬と違って散歩をしない。基本的な一度飼われると基本的な生活は家の中で終始してしまう。

すぐに空になって下げられた皿を見送り、乾いた口元を隣に置かれていた水で湿らせる。ぼんやりと水面を眺めていると、そこにもう一人の私。ミルクがいて、じっとこちらを見ている。「マル」になった自分を見ている。

 ミルクのことを頭の中で描く。しかし納得がいかない。自分と同じはずなのに、それを描きだそうとする要素が足りなかった。第一に私はミルクの住処を知らなかった。住処を知らないのだから、餌場も生き方も知っているはずがない。でも、知らないならこの目で見て知っておけばいい。

 水面に映るミルクから視線を外し、外を見る。コーヒーの匂いが薄い。閉店までは多分もう少しだ。ゆっくりと腕を身体にしまい込んで、私はもう一度外に出るための時間を伺い始めた。

 真夜中の外は静かで好きだ。耳が凪いでいる。昼間に牟田が私を連れて向かっていた場所が、丁度駅から離れていく方向だった。

 昼間の雑踏や車の残響が遠のき、明かりが徐々に消えていく。残っているのは前を歩いている牟田の足音だけになった。気付かれないように、家々の間を通る石垣に飛び移る。少しだけバランスを崩したがすぐに野生の頃の勘を取り戻した。

 石垣を渡って家の間を通り抜けた分、私は牟田よりも少しだけ先回りする形で家に辿り着いた。牟田が家の前について牟田と少し顔が似た女が出迎える。母親だろう。つまり牟田はまだ親離れをする前の若さだった。

 牟田が完全に家に入ったのを見て、牟田の家の塀に飛び移る。一階には白いカーテンがかかっており、その隙間からしか中の様子を見ることはできない。その範囲にはおおよそミルクの痕跡はなかった。

 あともう少しどこかにあれば。そう思っていると、後ろから急に唸るような鳴き声を聞いた。野良猫だ。暗闇に紛れやすい黒い図体が軽やかな細い身体を描く。右目の縁に大きな生々しい傷が二つ。恐らくかなりいい場所を勝ち取ったのだろう。そしてここは間違いなく、この野良猫の縄張りだ。

 猫の争いには必ず間合いというものがある。しかしその猫は問答無用とばかりに距離を詰めてくる。恐らく今しがたこの場所を手に入れたばかりで気が立っているのだ。チラリと爪を見ると、そこにはまだ他の猫の血が付着していた。

野良猫に言葉はない。あるとすれば身体に刻み込む怒りのサインだけだ。つまりどういう風に私が言葉を送ったとしても、この黒猫は隙と見てさらに間合いを詰めてくる。弊の奥。暗い場所へじりじりと私は後退りをしていく。そうしているうちにようやく、私はミルクを見つけた。そこにあったのはキャットフードを入れた小さな白いマグカップだった。

あんな小さな餌を食べて生きていけるのだろうか。私はきっと生きていけない。けれど複数回に分けてなら量は変わらないだろう。その方が満足感もある。あと数秒で私は襲われる。そう知っていても、私はやはり存在しない未来のことを考えていた。まるでそちらの方が現実で今が悪夢の中にいるような気がした。

黒猫の爪が一瞬の軌跡を描く。夜明けはまだずっと先だった。

2回目」への160件のフィードバック

  1. 「…わかりました。店は回しておきます。お店に来られたお客様にも聞いておきますね」

  2. 「申し訳ないんですけど、色々とありまして。その、道中でマルちゃん見られませんでしたか?あの後、再び行方不明になってしまったみたいで。今、店長が探していて、私のみです」

  3. 「お時間があるようでしたら助かります。店長も大慌てで。私も心配なのですが、店を放置できず」

  4. もしかして、昨日私が外に出しちゃったからまた外に行きたくなっちゃったとかですかねぇ?

  5. 「まあ、可能性としては?ただ、店長と帰った後にどうやって抜け出したのかは不明でして」

  6. ありがとうございます……!!
    とりあえず、診察してきます。皆さん、来てくださってありがとうございました。どうやってここがわかったのかわかりませんが、助かりました。皆さんは先にカフェに戻ってください

  7. …あ!お帰りなさい、牟田さん。マルちゃんは見つかりましたか?もう心配で、人も入ってきていないので私も探しに行こうかと迷っていたところです。あれ?木更津さんと和尚さんは?もしかしてまだ見つかっていないとか?

  8. ただいまでぇす。木更津さんと店長は病院にマルちゃんを連れていって、和尚さんは警察に……

  9. マルちゃん、かなり重傷みたいでぇ……
    血まみれの姿を見たときは、びっくりしちゃいました……

  10. 確かにそういえば、あのバイクですもんね。あまりにも堂々としていたので2人で乗って1人は歩いていたのかと思っていたんですけど

  11. えっと、すみません。私の頭では追いつけず。つまり、三人乗りしてマルちゃんを発見。マルちゃんは重症で、店長も見つかった。4人乗りして動物病院へ。和尚さんは警察に?

  12. なんというか。その、お疲れ様です。マルちゃんと和尚さん、大丈夫だといいんですが

  13. そういえば、マルちゃんが見つかったの、私の家の近くだったんですよねぇ……
    なんでだろう……

  14. マルちゃん、入院ですか。話は聞きました。ホットミルクでも入れますから座ってください。

  15. ねぇ、今、あなたの家の近くって言いましたよね。もしかして、またあなたが連れて行ったんですか!?

  16. 牟田さん、マルはミルクじゃないって言いましたよね。マルは、僕の大切な猫なんです。

  17. もうマルちゃんとミルクを同じだと思ってませんよ!
    店長の大切なパートナーだってことも分かってます!

  18. 店長、一度落ち着いてください。昨日の夜は牟田さんは店長よりも先に帰られていましたし、その可能性は低いですよ

  19. はい、ホットミルク。お疲れ様です。今はマルちゃんが元気になることを待ちましょう

  20. でも、誤解されてるのも私が悪いことしたからなんですよねぇ……
    ごめんなさい

  21. ありがとうございます……。牟田さん、突然疑ってしまって、申し訳ありませんでした……。

  22. いえ!店長の気持ち、私もよく分かります。
    ミルクのようにならずに、病院から帰ってきてくれるといいですよねぇ

  23. いえいえ、警察に連れていかれたと聞いて心配でしたが、和尚さんもご無事でよかったです

  24. それは……本当に何ででしょうね……。マルは元野良ですから、外に出たかったのかな

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