3回目

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 他では滅多に感じ得ない、鼻を刺すような匂いがする。身動きが取れないほど、身体が痛い。目を開けるために瞼を少し振り被らないといけなかった。

病院は嫌いだ。何より、今自分がいるこの仄暗い囲いが好きではない。ここにいると、猫ではない他の動物の悲鳴が鼓膜の奥へと入り込んでくる。それらがここでの痛みを思い出させるのだ。よく店長はここに来ると「マルのためだから」とさも優しげに言う。

 身体中の皮膚が裂けている感触が確かにする。動けない代わりに耳を澄ませる。密やかな寝息がいくつも重なって、人の足音がそれらを掻き消した。病院に来た経験がある動物は皆すべからく怯えている。それが怒りになるのか、恐れになるのかは動物によってそれぞれだ。

 手慣れた手が、自分を抱き上げる。されるがままだと職員も嫌な顔をしない。いや抵抗しても頑なに声だけは優しい。しかし手には徐々に力が籠る。傷がなくても痛いほどなのに、今の身体でそんなことをされたらと思うと考えたくもない。どう言う風にしたら表情や声と手の力をそこまで綺麗に分けられるのだろう。もしそれができれば、自分はあの黒猫に一太刀浴びせることができたかも知れない。覚えたふりをして、爪を忍ばせて、目でも、頭でも身体でもぶつけてあとは逃げればいいのだ。

 抱き上げられている間もずっと同じ匂いが鼻先を掠める。何か生物から生み出されているような気配をまるで感じられないのが、この匂いの特徴だった。しかしコーヒーやミルクとは違う。ミルクもコーヒーも元々は生き物から生まれているのだから、それはそうなのかも知れない。しかしもっと物質的な違いを感じる。かろうじて分かるのは、この匂いの中に死臭が混じっていることだ。

 猫の死臭はそれ自体が強烈な匂いを放つのもそうだが、ずっとそこに残り続ける。店に来る前にいた檻の中はいつもその匂いに満ちていた。あとは糞と尿の空気。そこに確かにいた別の猫の欠片がそうしてじっとりと、壁やブランケットに滲んでいた。店長の元に転がり込んでから知ったがあの場所は猫を最終的に殺す場所だったらしい。

 自分のように傷つけられたりはしない。人には人の死なせ方がある。それがあの匂いの源だった。だから死臭の匂いには人の手に息を潜めている死の感覚を感じる。全く敵意なくまるであやすような顔で、簡単に猫を殺せるのではないかとその匂いはそんな恐れを抱かせる。

 撫でられるのは別にどうとも思わない。昔は触れられるたびに店長の腕に爪を立てていたが、不思議とあの場所にいると徐々にそういう気持ちが薄れていく。そしてまた今日その場所に自分は帰ってきた。 いつものように扉で離してはもらえなかった。目を細める。店長のこの手の感触はさっきの病院の職員の手と似ている。その先にあるのはやっぱり、なんでもないような顔で、猫を殺す時の手だ。大きなケージの扉が閉まる。その瞬間に強引に抜け出そうとしたが、店長は強引にケージに私を押し込んだ。店長の爪が頬を掠めて、僅かに血が滴る。初めて店長が自分に傷をつけた。しかし店長は何も知らない顔で、今日も開店の準備を始めた。

3回目」への64件のフィードバック

  1. いらっしゃいませ。あ、聞いて。マルが今日退院してきたんだ。でも、まだケージから絶対出さないでね。絶対。

  2. 店長、砂糖やケチャップ、買ってきましたよ。おや、いらっしゃいませ。今日は冷えますね。

  3. 店の奥のキャットタワーの近くにいるよ。
    キャットタワーの周り、柵で囲ってあるから暫くは立ち入らないでね。ごめん。

  4. やっぱり、まだ安静にしてないとですもんねぇ……。
    でも、帰ってきて良かったですよねぇ!

  5. 本当にそうですね。しばらくは安静でマルくんも窮屈そうですが、こればかりは仕方ないですからね

  6. 和尚さん、こんにちは。いつものですね。今から焼き始めますので少々お待ちください

  7. はは、このキャットタワーをそう言われたのは初めてです。仏門……そうですね、仏門は遠慮しておきます。

  8. 今回は……まるがトラウマをだいぶ思い出してしまったらしくて。
    なんでこんなことになってしまったのかわかるまではちょっと、仏門には下れません。

  9. ああ、先ほどから中にこもってしまっているのはそういうことでしたか。そうですよね。嫌ですよね、病院の後に外に出るのは。

  10. いや、元々まるは野良なんだけど、病院が大っっ嫌いでさ。
    病院に行くと保健所に入れられちゃった時のこと思い出しちゃうんだ

  11. ミルクも病院行くの嫌がったので、結局病院に行くの諦めて自分で看病したんですよねぇ

  12. うーん、微妙ですねぇ
    前はミルクにコーヒーあげたりしましたけど、今はそれが駄目だと分かったので、コーヒーの代わりに別の大丈夫なものをあげるようにすれば看病できるかもです

  13. かしこまりました。『クリームシチューの猫耳を添えて』と『まる君のラテアート』です。

  14. ああ、すみません。女性に「ちゃん」とつけるとセクハラだのなんだの色々言われかねなくて。「まるちゃんのラテアート」ですね

  15. マルちゃん、お腹すいてるんですかぁ?
    ごめんね、これはもうあげられないんですよぉ

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