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冷えたケージの底に預けた身体に日差しが差し込んだ。朝の匂い。微かに聞こえる外の世界の音。店長が私をケージに入れてから一周間が経とうとしていた。
私がいなかったからと言って、別に変わったことはない。時折いつもの場所にいない自分のことを口にするものもいたが、店長が理由を話してそれで会話が終わる。正直に理由を話しているのだから、店長に非はないし別に糾弾されるべきことでもない。
誰かの足音が近付くたびに、その足音の姿や形を思い浮かべた。そして知っている足音が知らない音調になって来ることを何よりも恐れた。知らない人の足音よりも、そっちの方がずっと恐ろしいことを私は知っている。何か心変わりがあったと知っている。
「心変わり」があったときの人の行為は大抵猫にとって利点にはならない。病院に行かされたり、慣れないどこかに連れて行かれたり、お風呂に入れさせられたり、何かを決意しようとしていつもの自分とは違う気配を纏っている。それが心変わりの足音なのだ。
店長はこの心変わりを隠すのが壊滅的に下手だった。上手く装っているつもりでも、音を殺すという行為が基本的にできない。そういう意味ではもう一人の従業員の方が隠すのは上手だ。もし店長が野良猫だったら、自分よりも生きていけなかっただろう。実際そういう猫はいる。全部の猫がうまく立ち回って生きられるほど、野良猫の社会は甘くできていない。
何人かいた自分の兄弟や姉妹の中に店長によく似た猫が何匹かいた。そういう猫は大抵親離れが遅い。だから足音や気配の感情を消すことや他に頼らない生活に慣れていない。中でも最後まで母猫にひっついていた猫は親離れしてすぐに近くを縄張りにする黒猫に甘えて、そのまま襲われて死んだ。
猫の子供と人の子供の違いはそういう愛情の十分さもあるだろう。牟田ぐらいの年齢はおそらく猫で言うともう親離れをしていないといけない時期なのだ。人には猫の一生くらいの猶予期間がある。おまけに死と言う恐怖もだいぶ遠く離れた場所にある。だから猫に比べると時間感覚に疎くなる。
しばらくケージの中でじっとしていると、店長がお店の扉を開ける。ケージに入ってからはなるべく刺激しないためか、餌を置くとそそくさとケージを閉めるので脱出する隙もない。店長が何を言っても抑揚のない、うやうやとした声に聞こえた。元々ある距離感が猫と人の適切な距離だとは思えなかったが、その時間が長くそして居心地が良すぎたのだ。そのせいで、いつの間にか何か特別な状況になった時、人に対して必要以上に攻撃的になってしまう。
餌を持って来るたびに私は店長の手を噛みついたり、引っ掻いたりした。数を重ねるにつれて、傷だらけになる手が怯えて引っ込んでいくスピードが速くなる。まるで母猫の鋭い目つきに怯える子猫のように。
それでもひつこく手に噛みついた。それからケージの網が削れて壊れるまで、噛み付くこともあった。そう言うことでしか距離感の変化を表現することができなかった。猫が一番飼い主に言葉を伝えられる方法の一つは攻撃なのだと実感しつつあった。しかし店長は餌やりも水やりもやめなかった。いつかは捨てられて、外の世界にたどり着けるだろうとなんとなく考えていたがその日はいつになっても来なかった。
ケージから見ていても、店長は日常生活に支障をきたすほど手を傷だらけにしていた。店員と話しながらでも、皿を洗っている時に声が軋んでいたし、ケージに近付くと絆創膏だらけの手をいつも気にしている。
ケージから出る時もリードをつけられて、店の限られた範囲でしか動けなかった。いつの間にかキャットタワーが置かれていたがそれには興味持てない。結局店長と自分の関係は変わらないのだから。夜になると少しずつリードを削る生活が始まった。また店の影が浮かんでくる。朝は近い。店長が店を出る前に飲んだ珈琲の残り香が、生爪に纏わりついていた。
店長ー、おはようございます♡
え!綺麗な手が傷だらけ!!!どうしたんですか!!!!
まるがあああああああああ
うっ、うっ…………
まだ痛むのか、ずっと気が立ってて……
大丈夫かなぁ……大丈夫かな〜〜〜
ちょっと??? 店長の体に傷つけるとか、許さないんですけど、この猫
まだ本調子じゃないし、ケージから出すとすぐ逃げ出すからケージに入れておかないといけなくて
まる…………………まるぅ……………………
うっ、うっ
おはようございまぁす!
マルちゃあん、身体の具合どう~?
早くお前を抱きしめたいよ……
ルリが躾けてあげましょうか?猫ちゃんのこと♡
あ、いらっしゃいませ
ごめん、ルリちゃんにも言ってなかったね……。いらっしゃいませ
いや、怖いからやめて
マルちゃん、まだケージから出せない感じですかぁ?
店長、料理できないならー、ルリが手伝いますよ♡
んー……出してもいいんだけど、店から逃げ出そうとするんだ……
私も、マルちゃんの餌やり手伝いましょうかぁ?
……どっか、行きたいところでもあるのかな……
涅槃ですかね?
なるほどぉ。
ミルクもよくどこかに行ってましたし、あるかもしれないですねぇ
じゃあ連れてってあげたらいいと思いまーす♡
うわぁっ、い、いらっしゃいませ
まるが行きたいところ……
皆さんにお願いがあるんですけど
何ですか?ルリ、店長のお願いなら何でも聞きます♡
なんですかぁ?
聞いてあげましょう
言ってみなさい
マルを外に出して、ついていこうかなって……。
お客さんにこんなこと言うのも失礼なのはわかってはいるのですが、一緒についていってくれませんか?
おやおや
いいですねぇ! マルちゃんのためなら協力しますぅ!
もちろん! ルリと店長以外の人は店に残ってていいですよ♡
仕方ありませんねぇ、私のハーレーで、、、
ありがとうございます……!!
いやいやルリさん、私たちも行きますよぉ!
え、古谷さん、残ってくれるの……!? ありがとう。そしたら、頼んでもいいかな。お願いします。
私と店長以外は店に残っていて良いですよ、ルリさん
怖いよ
坊主、もしかして……
なんですと!?
そんなことより早く行きましょうよぉ
では私のハーレー2号で、、、
まる、おいで……首輪つけさせて……痛たッ
そうそう、ありがと……よしよし
歩いていくんですけどね……
マルちゃん、怖くないですからねぇ
ちょっと!この猫、なんでこんなに店長に噛み付くの!?
私たち皆、マルちゃんの味方ですよぉ
マルさん、怖くないですよ
さぁこちらへ
皆、ありがとう
本当に、ありがとう
いえいえ! さぁ、マルちゃんどこ行きますかぁ?
じゃあ、古谷くんよろしくね
いってきます!
このアイスクリームは美味しいですねぇ
今の間にあの通りで売ってたアイスクリーム屋さんで買ってきたんですか??
あー、店長と二人っきりだったら、もっと幸せなのに!
Exactly
こっちの方向だと、何があるんでしょうねぇ
この通り、なんか見たことあるような……?
夢で見たのでしょうか
私もこっちは行ったことあるんですけど、大分昔なのであんまり覚えてないですねぇ
駅とは逆方向ですよね?
そうだよね
まるはどこに行きたいんだろ?
ルリちゃんはこの通り来たことある?
え、っと〜……
内緒です♡
私は来た事ありますぞ!
え? そっかぁ……
あれ?あそこにある看板、本当に見覚えがある
なんだっけ、なんで見覚えがあるんだっけ
錆びてて全然読めない……読める?
うーん、確かに読みづらいですけどぉ
私、この文字読んだことあります。確か、行き止まりって書いてあるんですよ
でも、ここを抜けて向こうに行った記憶があります!
行き止まり……!
どうしますぅ?
そうだ、俺も……
まる、こっちいくの?
…………いくみたいだね
私のハーレー2号で破壊しますか?
よぉし、マルちゃん行け~!
なんで持ってきてるんですか
いこうか、ルリちゃん、牟田さん、足元気をつけて
はぁい
え〜!!心配してくれるなんて優しい♡
まさかこんな森の中に来るとは思ってなかったからね……
確かに、めっちゃ森ですね! 何なの、ここ
ですねぇ……
マルちゃん、まだ奥に行くんですかぁ?
そうだ……確かここって……まると初めて会ったところじゃ……
え、店長もですかぁ!?
牟田さんも……?
すごい、綺麗な広場!
あ、まる……!?
待って……!!なんで首輪外れて……
私もここでミルクを拾ったんですよ!
マルちゃん、先に行かないで!?
え……!!?
なんか、まる、輝いてない……!?
あれぇ、これ、私の目が可笑しいんですかねぇ?
店長も輝いて見えます?
いや、マジで光ってるんだけど!?
あそこにいる、別の白い猫は……?
何々何!? もう何が起きてんのかわからん!
……ミルク?
やはりあの方は、、、、
涅槃に至られるのですね、、、