「ライブ小説@うみみ」とは

注目

「ライブ小説@うみみ」は地の文と特定の何人かの登場人物の発言をそれぞれ別の人が担当しています。
地の文は毎週火曜日23:59までに更新されます
どくろ、船頭、海の先の人、の3人の会話は木曜日11:00〜12:00の間、最新の章のコメント欄でリアルタイムに更新されます

最終章

 白い霧の奥に二筋の赤い光が灯台を映写している。二つの灯台。

 ミニ観葉植物を窓辺に飾る。中川君もそうしているに違いない。ガラスの植木鉢を窓辺に置いて遠い目をする。中川君と目が合う。次の日曜も空いている。中川君と私は映画を観る。感想を言いながら、絶えず口元をほころばせながら、コンデンサーミルク味でミルクティー色で、柑橘の香りのするあれを飲む。お互いの口にグラスのストローをくわえさせながら、2ショットを撮る。付き合ってくださいとお願いするのは、あるいはされるのは、何回目のデートの時が適切なのだろう。母の目。三回目くらいだろうか。そう言っていた気がする。

 ミニ観葉植物を引き抜いて窓から投げる。昼間遊んだ中川君の姿を思い浮かべようとしてくしゃみがでる。中川君のイメージがひらひらと宙に舞って窓から出ていった。ゲロの付いた服は洗濯せずにそのまま捨てればよかったかもしれない。あんな無地のTシャツを着て、アメリカ人を気取ったところでかっこいい人間になるはずがない。ガラスの植木鉢を割ろう。こんなものがおしゃれなはずがないんだ。割れたガラスから土があふれ出る。今日の一日をすべて、なかったことにできた。父と母の笑顔。胸が軽くなる。

 船頭はさっきから櫂の動きを止めている。二つの灯台のどちらにも船は進まない。

 布団が柔らかい。観葉植物をカバンから出し忘れた。飾るにしても、捨てるにしても、もう眠いから明日にしよう。

 無邪気な声が霧中に響いている。それがどこから発されているのかわからない。海と空が渦を巻き始める。どくろが上下左右に揺れ動く、それに合わせて灯台も動く。どくろの目が点滅して、空や海に色んなものを映す。白い霧がそれをかき消し、また別の像とつないたりする。海の底に布団の上で目を閉じて寝ている私がちらっと見える。そこから私が泳いでくる。海から船に上がってくる。私と隣合わせで座り、渦を巻く天と海と、そこに映るものを眺める。

※この回の会話文はありません。これでライブ小説@うみみは終了です。

1章

中川君は時間の十分前なのにすでに来ていた。

「ごめん! わたしも早めに来ようと思ったんだけど、待たせちゃった?」

「いや、ぜんぜん。こういうのって、男が早く来て女の子を待つものだしさ!」

中川君がはにかんだ。

私が小学生のころ、ある日母はため息をついてきつく言った。

「女とか、男とか、関係ないから。相手を待たせたら謝らなくちゃだめよ」

テレビの中では『女の人が待ち合わせに遅刻! こんなとき男性はどうする?』という議題でタレントたちが話合っていた。

中川君に

「でも、待たせちゃったから、ごめんね」

と返した。中川君はニコニコして

「まあ、いいよ。それより行こうか」

と私に促した。

それから二人並んで映画を観てカフェで感想を言い合ったり、洋服を選んでいちいち相手に似合うか確認したりする自分たちの姿を私は想像した。寒気がした。

そして悪いことに中川君に連れられて見えてきた建物は映画館だった。

「加藤さん、これ見たいって言ってたよね」

中川君は一枚のポスターを指し示した。

数日前のお昼休みに私は教室で友達とお弁当を食べながら映画のことを話していた。その時の私たちの声は普通より大きかったかもしれない。それに近くには中川君とその友達もいたのかもしれない。

中川君が私の顔を覗き込んでいる。

「でも、それはひとりで観ようと……」

私はうつむき加減にそう答えた。中川君の目が一瞬泳いだ。でもすぐにいつものさわやかな表情に戻った。

「ごめんね! そういうことだったんだ。じゃあ映画は止めて、ちょっと早いけどご飯食べようか」

「うん。私こそごめん。せっかく計画してくれたのに……」

「ううん。こういうときに女の子が喜ぶような計画を立てられないなんて、男として情けないよ」

中川君は肩をすくめて私に軽く頭を下げた。

テレビで女性タレントが男性芸人や男性アイドルが考えてきたデートプランにダメ出しする企画をやっていたことがある。母は

「あー! 嫌な女! そんなに文句を言うなら、自分で考えればいいのに!」

と言ってビールを一気に飲んだ。

私は中川君に申し訳なくなって

「そんなこと、ないと思うけど…… 今度は一緒に計画しようね」

と詫びたが中川君はすかさず

「女の子に計画させるなんて、できないよ。でも今度からは事前に確認する」

「うん。ありがと」

そうしてやってきた喫茶店はウッドデッキがある店で、店内にはサーフボードが飾られていた。案内されてテーブルに座り、中川君が慣れた感じですぐに注文した。それが何かは聞き取れなかったけれど私も同じものを頼んだ。メニューの裏には何枚か海の写真が貼ってあった。夜の海で、砂浜の端にビル群が見切れていた。ビルにはどれも明かりがついていた。それからよく見ると観覧車も映っていた。別の写真は昼間の海で、真っ白い砂浜がとてつもなく広い。水平線まで遮るものは何もなく、砂浜に立てば視野はすべて海と空になるだろう。

砂浜に立たされて、大声で叫ばせられた。砂粒がざわめき、舞い上がり、海の向こうへと飛散した。海面は凝然として動かない。振り返って母に

「アメリカに聞こえたかな」

と尋ねると

「聞こえないよ。遠いもん」

という答えが返ってきた。母はそれから私に近づいてきた。中腰になって私の両肩に手を置いて、

「でもそれくらいちゃんと声を出して、言いたいことを言えるようになったら、志保にももっと友達が出来るし、嫌なことする子もいなくなるよ」

私がじっくり写真を見ていると、中川君が身を乗り出して写真を覗き込んだ。

「いい写真でしょ。ロサンゼルス、アメリカの西海岸だよ。ここの人たちはすごくおしゃれなんだよ」

中川君は口元をほころばせて抑揚をつけて喋った。壁にかかったサーフボードの脇には夜の海で観覧車やビルの光に照らされてポージングする若い男女の写真が飾られている。店員さんはデニムにvネックの無地のTシャツを着ていて、ゴールドのネックレスを着けている。肌は健康的に日焼けしている。運ばれてきた飲み物は冷たくて、柑橘の味がした。でも色はミルクティーで、後味にコンデンサーミルクの甘さがあった。それを中川君はストローの一吸いでグラス半分飲んだ。にんまりと笑って壁のサーフボードや写真をゆったりと眺めた。店内にはBGM代わりにさざ波の音が流れている。中川君からさざ波を聞こえなくしてしまうのが悪くて、黙っておいた。コンデンサーミルクの甘さは口の中にへばりついていた。中川君の視線を追う。

店員さんが給仕の合間に私たちのことをちらっと見て少し微笑んだ。きっと私たち二人を趣味のあう恋人同士と思っているだろう。それか私を彼氏に合わせてあげる優しい女の子とでも考えているに違いない。

せめてコンデンサーミルクをどこかに追いやろうと、小さなコップのお冷を一気に飲み干した。口の中がさっぱりした。中川君はまたあの飲み物を飲んだ。テーブルの上には海の写真が散らばっている。それを窓から差し込む日光が照らしている。写真の中の太陽が逆にこちらを照らしているように見える。中川君の顔は光に照らさているけれど、それは日本の太陽というよりアメリカの太陽に照らされていると表現したほうが適当そうだった。

「そろそろ行く?」

と中川くんが言ったので、私は残りの例の飲み物を一気に飲み干した。オレンジのような優しい甘酸っぱさの奥からコンデンサーミルクの波が押し寄せる。そんな味だった。私の口の中はべったりとした甘さに支配された。西海岸の写真が反射する陽光のひとすじが私に当たる。瞬間、エレベーターが急に動いた時のような、ふわっとした感覚があった。

「おいしい?」

と問いかける中川君の口からは甘ったるい匂いが漂う。

「まあ」

と発すると私の口からも中川君のと同じ匂いがした。本当は「私の好みではないかも」と続けたかったけれどそれ以上口を開きたくなくて、

「でしょ!? おいしいよね。最高なんだ。いかにもアメリカって感じでおしゃれだし、最高の店だよね。また一緒に来よう!」

という中川君の言葉にただ頷いた。

海の写真がギラリと光った。光線が私を貫いた。中川君の声やさざ波の音が周りの雑音に紛れていく。私は後頭部をひもで牽引されるように、浮いた。空気が真珠色の陽光に満たされている。私は海中に浮くように、真珠色の光の中に浮遊してしまった。

テーブルを立ち上がった私は中川君の後に付いて歩き会計も中川君の斜め後ろに立ち止まった。会計を済ませた中川君に私が

「ごちそうさま、ありがとう」

と礼を言っている。

「いいんだよお礼なんて。こういうのは男が払うのが当たり前なんだから。女の子はおごられて当たり前なんだ」

と言って胸を張る中川君の腕に私の手がかかる。そしてそのまま店を出ていく。

遠ざかって行く私と中川君を追いかけようと、真珠色の光の中を平泳ぎのようにして進もうとした。しかし逆にどんどん上に浮いていく。早くしないと、二人とも店を出てどこかへ行ってしまう。そう思って急いで光をかけばかくほど、浮いていく。真珠色だったはずがだんだん暗くなっていく。私と中川君が店の扉に手をかけたあたりでついに真っ暗になってしまった。

それからしばらく真っ黒な中をもがいてどうにか泳ごうとしていた。息がだんだん苦しくなった。もう限界というところでやっと息ができた。そこは暗い海だった。周りに陸もない。私がどこに行ったか探さなくてはともう一度潜ってみた。しかしそこは真珠色ではなかった。黒い海中に二つの光の玉が揺れていて、それらがこっちに近づいてくる。それが水面を突き抜けて浮上すると、周囲の水が隆起した。光の玉の正体は大仏ほどもあるどくろの目だった。どくろに見入っていると、頭に何かがぶつかった。それは小舟だった。安心してそこによじ登った。どくろがずっとこちらを見ている。

中川君におすすめされる服を体に当ててみて、

「かわいー! この服好き」

と言う私はさっきから体の中身がすっぽり抜けたような感じだった。中川君が勧める服はどれも、例のいかにもアメリカっぽい服ばかりだった。

『服があなたを作ります。着たい服を着て、なりたい自分に』というのがそのデパートの今夏のキャッチコピーだった。

「中川君はどうしてそんなにアメリカンな服が好きなの?」

つい聞くと、中川君は照れ臭そうに笑って

「イヤー、俺、ほんとはダサいんだよね。でもアメリカの西海岸の写真に載ってる人と同じ服着ればさ、最低限見れる感じになると思って。それで着てみたら、やっぱりいいなって。だからアメリカの西海岸を参考にすれば、間違いないなって。いろんなところで参考にしてる」

「なにそれ。でもちょっとわかるかも」

私は笑った。

クラスで一番派手で、実はピアスなんかが開いている女子の口ぐせが「なにそれ」だった。

中川君は今日私と話した中で一番うれしそうに笑った。

小舟でどくろとにらめっこをしていると、どくろの向こうから丸くて小さい、それでいてとても明るい光が見えた。灯台に違いなかった。向こうに行けば誰かがいるかもしれない。オールを探そうと小舟の中を見渡すと、いつの間にか船頭らしき人が舳先に立っていた。

船がゆっくりと光に向かって動きだした。二〇メートほど進んでから振り返ると、どくろもゆっくりとこちらに動いてきていた。

船頭はオールを動かしながら

2章

 小舟は進路を変えて、灯台に背をむけてどくろの方へと動いた。

 中川君に勧められたくすんだ色の無地Tシャツを着て外に出た。十四時の太陽で私と中川君が照っていた。さっきのサングラスも買っておけばよかった。中川君が手でひさしを作って目を細める。

 いつか見た映画か何かで、アメリカ人のカップルが日差しを浴びて腕を組んで歩くシーンがあった。まぶしくてもうつむいていなかった。

 私は中川君の腕に腕を回した。それから日の方へと胸を張った。中川君は多少目を見開いたけれど口角を上げて、それから脇を締めて私の腕をぎゅっとはさんだ。

 昔父親によくハグをされた。父のハグは少し強めで、私の顔は父の肉体に沈みこんだ。そうすると私は決まって、よく晴れた昼下がりのような暖かさを感じて眠くなってしまった。

 私は中川君の肩に頭を乗せた。日差しが暖かい。あくびが出た。中川君はちらっと私の方を見て、くすりと笑った。

 家具屋さんの広告に微笑みあう男女の写真が使われていた。写真は全体に暖色がかっていた。

 私は中川君に微笑み返した。それから広告の家具屋さんを指さした。

「あのお店入ろう」

「ああ、いいよ」

インディゴの大きなクッションを発見して、中川君が

「あ、これ同じの持ってる」

と言った。クッションは柔らかそうで飛び込んだら中川君と同じ匂いがしそうだ。

「加藤さんの部屋はどんな感じなの?」

私の部屋にはほとんどものがない。真っ白な壁紙で窓には真っ白なカーテンが引かれている。あとは机と教科書しかない。ほかに何を置いたらいいのかわからないからそのまま放置している。

「私の部屋は…… 別に普通だよ?」

「そっか、普通か」

中川君は私の答えに笑いながら返した。少し上の方を見ながら、

「そっか、普通か」

とつぶやきながら歩いた。

 質問や答えをすると私の言ったことを何度か小声で繰り返して、時には「うーん」とか唸ってから返答をする人を今まで何度も見た。その時は大抵いつもその人が話すときよりもだいぶスローテンポかつ低めの声だった。それから私の質問への返答のはずなのに「なんじゃないかな?」という風に語尾を上げるパターンもよくあった。

 私の返答が中川君を悩ませているとわかった。急いでまだ返答しない中川君に

「でも、新しく小さい何か置きたいから、中川君一緒に選んで」

「もちろん、いいよ」

中川君はまた柔らかく微笑んだ。

「これなんかいいんじゃない?」

そういって中川君が手に取ったのはミニ観葉植物だった。掌に乗るくらいの透明のガラス鉢に茶色や白の砂利が層になっている。その上に緑色の細い幹が何本か生えていて、サーフボードのような葉っぱが何枚も付いている。テーブルヤシというらしくて、値段も高くないので、それを買うことにした。

 先週学校で、少し大きめの上気した声で

「彼氏とお揃いなんだー」

と言ってキーホルダーを回りに見せる子がいた。周りの子たちは「いいなー」とか「超イチャイチャしてんじゃん」とか言っていた。

 私はその観葉植物を手に取ってから中川君を振り返って

「中川君もこれ、買わない? お揃いで育てよう」

「いいね。どっちが大きくできるか競争ね」

中川君はにやにやしていた。きっと喜んでいる。私もつられて口元がほころんだ。

 二人ともガラス鉢をもって店内を回っていると、目の前に落ち着いた青色と白めのクリーム色でボーダー柄のカーペットがあった。このカーペットは中川君が好きそうだ。

「このカーペット、すごくいいね。加藤さんどう思う?」

私は思わず笑ってしまった。

「うん! いいと思う! おしゃれ」

中川君は笑う私の顔をちょっと見つめてから自分も笑い出した。

 中川君は今、「加藤さんと趣味があってよかった」とか「加藤さんって僕と一緒でセンスいいな」とか思っているのかもしれない。それはまだわからないけれど、「なんで笑うんだろう」とはきっと感じているはずだ。

「だって、このカーペット、中川君が好きそうって思ってたんだもん」

「え? そうなの? よくわかったね。やっぱり加藤さんとはセンスあうかも」

私はまた笑ってしまった。胸のあたりが暖かくて軽くなった。

小さいころに大好きだった近所のお姉ちゃんに夕方遅くまで遊んでもらった。あの時も胸のあたりが暖かくて、軽くて、そのままずっとお姉ちゃんと一緒にいたかった。

お店を出ると中川君は夕飯に誘ってくれた。ずっと私と行きたかったお店があるらしかった。私はもちろんそこでいいと答えた。

自分のプランで私が喜ぶのは中川君にとってこのデートの成功を表すのに違いない。私にはそんな中川君の心の中が透けて見えていた。中川君の用意してくれた予定に従っていると、私も快かった。

中川君の午前中の言葉が脳裏に映し出される。

「女の子が喜ぶ計画を立てるのが男の役目なんだよ」

なら、男の、中川君の作った計画に文句を言わずに寄り添うのが女の私の役目だ。

 どくろに導かれて船が進む。時折どくろの目の奥の赤い光が揺らぎ、海面を照らす。海面に楽しそうに腕を組んで歩く私と中川君が映っている。『幸せな男女』という題名で写真を撮れそうだ。よく目をこらすと、どくろの先の海面にはたくさんの映像が映っている。夕飯を食べて笑いあう私と中川君。母親に行きと違う恰好で帰ってきたのを指摘される私。私と別れた後にガッツポーズをする中川君。学校でクラスメートたちに中川君との仲を問いただされるシーン。それから小さいころに近所のお姉ちゃんに遊んでもらった時のこと。お母さんに叱られたこと。それらがみんなどくろの両目に空いた穴からぼんやりと滲む火影のようなものに照らされている。船は静かに進んでいく。船頭はさっきから無口で、灯台のほうから聞こえていた無邪気な声もしばらく聞こえてきていない。

3章

 船はまた旋回した。今度は灯台の方へと船頭が漕ぐ。どくろが振り返る。船べりの黒い水面がやおら猩々色に染まる。その奥に中川君と私がお揃いの観葉植物を持って映っている。靄がかかった空気が灯台の光を辺り一面に滲ませている。櫂が猩々色の水面をかき壊す。飛沫が灯台の光に飲まれる。

 私と中川君それぞれの前で、ずしりと重いステーキが油を滴らせている。

 アニメ。金髪にそばかすの少年が星条旗の柄の服を着ている。彼は顔の両脇でフォークとナイフを構えて舌なめずりをする。次の瞬間にはステーキをぺろりと平らげて、おなかをぽんぽんと叩く。

 中川君がステーキを一切れ飲み込んでにんまりと笑う。照明を浴びて髪がうっすらと金色になる。

「どうかした? 加藤さん、食べないの?」

「えっ、ああ。なんでもない」

急いで肉を一切れ口に入れる。口の中に多量の肉汁がしみわたる。

 ふと窓ガラスを見た。無地だったはずのTシャツに星条旗の柄が浮きでている。

 あわてて視線を窓から自分のお腹の辺りに移した。私が着ているのは無地のTシャツだった。

 もう一度窓を見る。やっぱり私は星条旗の柄のTシャツを着ている。

「いい景色だね」

中川君がぽつりと言った。

「え? ああ、いい景色」

中川君はそれでにんまりと笑った。合わせて私も笑うと、窓の中の私の頬が盛り上がる。そばかすが染みるように現れる。焦点を奥にずらして、薄暗い中に明かりを灯す街並みを見ようとする。観覧車が回る。

 昼間のカフェで観た西海岸の夜景にも観覧車があった。中川君がこの店に来たがった理由がよく分かった。

 少しでも油断をすると、私の間抜けな、ぼーっと外を眺める姿にピントが合ってしまう。せめて視線だけでもと逸らすと、窓の中の中川君と目が合う。窓の中では中川君にもそばかすができている。私と違ってよく似合っている。窓の中の中川君の口が動く。

「加藤さん。ぼーっとしてどうしたの?」

間抜けな顔をしてどうしたの? ってことだとわかる。穴が開くほど、窓の中の中川君が私を見つめている。

「顔に何かついてる」

 中川君が窓の中から出てきてテーブルに座る私に入り込む。そばかすが似合ってないっていう意味だよと私の脳に響かせる。

「そんなの知ってる」

星条旗の柄のTシャツのことも言われる気がした。

「服、やっぱり私の趣味じゃないみたい。似合ってないんだよね」

「そんなことないよ」

隣に座っている中川君が私の方へと体を向けて否定した。

 嘘だ。嘘に決まってる。だって私の中に入った中川君が嘘だと言ってる。でも、と窓の中の私を、一抹の望みをかけて観ると、うすら笑いを浮かべている。ばかみたいだ。

 テーブルの上でステーキの脂が白く凝固し始めている。中川君はいつの間にか食べきっていて、暇そうに私のことを眺めている。

 今日集合としたときのこと

「いや、ぜんぜん。こういうのって、男が早く来て女の子を待つものだしさ!」

 急いでステーキを切り分ける。固くなっていて切り損なうたびに、中川君の鏡像がきゃっきゃと笑う。やっと切り終わって口に入れようとする。窓ガラスを見る。そばかすに星条旗Tシャツの私がフォークに分厚い、白い脂まみれの肉を差して口を大きく開けている。

 よだれを垂らして、肉を貪り食う怪物の絵本。その絵を見ていると顔が引きつってしまう。

私はフォークとナイフを静かに皿に置いた。

「もう、おなか一杯になっちゃった」

「そっか。じゃあ、行こうか」

中川君の待ち時間は最小ですんだ。それだけが私の救いだ。

 店を出たあたりで、後ろから誰かの視線を感じた。振り返ると誰もいない。

 船べりに当たる黒い水の底に私がいる。あれは紛れもなく私だ。とっさに飛び込んだ。とたんに力が抜けて、溺れてしまう。船頭が引き上げてくれた。

 帰りの電車で中川君が私に言った。

「加藤さんて、教室でもいつも一人でいるし、でも文化祭でなにやるか決める時とかたくさん発言してたし、それに結構スカート短いし、どんな人なのか気になってたんだよね」

 そういえば、私は昨日までどんな人間だったのだろう。昨日までのことを思い出そうとする。

教科書を忘れて隣の子に見せてもらった。

国語の授業を受けた。

外で鬼ごっこをした。

道に車が走っていた。

 昨日までの自分がどんな人だったかは思い出せない。昨日の自分や小学三年生の夏のある日の自分は思い出せるけれど。

「じゃあ、僕はここで降りるから。今日は加藤さんのことよく知れた気がする! また遊ぼうね」

 電車のドアが閉まってまた動き出す。電車が揺れると胃の中でステーキの脂も揺れる。それが胃の壁から順に体中に染みわたっていく。それが皮膚にまで達したとき、私はきっとあの金髪のステーキを頬ばる少年になってしまう。体がそれを受け付けない。胃液がこみ上げる。

 灯台の光が靄に当たり、船の周りが光で包まれている。どくろの目の光は灯台の白光にほとんどかき消されている。船頭の姿だけかろうじて見える。声が聞こえる。声も光と同じように反響している。どこから聞こえてくるかは分からない。

4章

 周囲はいよいよ白い光に包まれた。船頭の姿もどくろも、船底もそれどころか自分の手さえも見えない。動いているのか止まっているのかさえわからない。

 中川君の言葉が私の頭の中でこだまする。

「加藤さんのこと色々知れた気がする」

私自身が今までの私のことを何もわからないのに、なんで中川君が知っているのだろう。

 白い陶器に溜まった汚い水に、私の口から肉片が黄色くなってドロドロと流れ出る。

 階段を上っていると音楽が聞こえてきた。直に電車が来るだろう。あるいは少し時間があるかもしれない。

 息を整えて、車窓を見る。私が映っている。頬にはそばかすがないし、Tシャツは無地だ。胸を撫で下ろす。

 中川君の誘いを断るべきだった。そうすれば、私の中に中川君の鏡像が入り込んだり、私がデブのブサイクの、あの金髪少年に一瞬だって変身することもなかったはずだ。今となってはもうなんで中川君の誘いに乗ったのかわからない。いや、最初からわかっていなかったのかもしれない。

 私の足元でレールと車輪がこすれ、ぶつかる。それに合わせて床が揺れる。住宅街を一つ通り越すとしばらく家がまばらになる。それからまた家が多くなりはじめると次の駅に着く。電車の床が右にスライドして、私は一瞬踏ん張らざるを得ない。それもちょっとすると慣れる。窓の外では、まただんだんと家が減っていく。これを何度か繰り返せば降車駅に着くだろう。そのあとには家はもっと少なくなって、今度は田んぼや畑へと景色が移ろっていくだろう。あるいはずっと、住宅街なのかもしれない。

 服の裾に黄色いものがへばりついている。手で触れる。粘性がある。その手を鼻に近づけて嗅いでみる。ツンとした匂いに顔をそむけてしまう。それが私の吐しゃ物であるという確証がない。そもそも、私は嘔吐なんてしただろうか。隣のおじさんがため息をつく。とても臭い空気が私の鼻に吸い込まれる。急いで口からその空気を出す。電車が揺れる。よろついて私とおじさんがぶつかる。おじさんの服にも黄色いねばねばついている。ああ、これはおじさんのものなんだ。そうでなければ、誰のものでもない。

 電車が降車駅に着いた。座っていた人の何人かが立ち上がる。ある人は荷物を持ち直す。またある人は体の向きを扉の方へと向ける。そういった人たちのために周りの人々は扉までの道を空ける。座席の前にいた人々は空いた席に座る。それから扉が開く。こうして車両が揺れる。人間の頭がたくさん、左右に揺れながら少しずつ前進していく。私の体もそれにあわせて動く。それは自分で動かしたのか、何ものかに動かされたのかわからないほど、自然に動く。改札まで列になっている。私は今階段に差し掛かっている。あるいはもう改札の前か電車を降りたところ。小さな子供が若い女性に手をつながれて歩いている。きっと手が暖かいだろうなと考えると、私の手も暖かくなる。自動改札がけたたましい音をあげる。スーツを着た人が立ち止まる。後ろにいる人がその人に激突してしまう。痛い。おなかと背中に衝撃を受ける。人々が一定のリズムで順々に改札を通り抜けていく。デニムパンツにくすんだ青色で無地のTシャツを着た、高校生くらいの女の子が改札に差し掛かる。その子が改札を通る。あるいは通らずに人込みの中に埋没する。

 その女の子が私だと気づいたのと私が改札を通り切るのは同時だった。足の裏には一歩ごとに振動がくわわる。足を動かすと手も前後に振られる。私は家に向かっているのだろう。

 足元に伝わる振動、吐息の暖かさ、つばを飲み込むときの喉の動き、それらすべてを私は必至で感じようとしている。少しでも気を抜くと、私はこの体から振り落とされてしまいそうだ。なんとか家までは耐えなくてはならない。

 船は真っ白な光の中、波に上下している。この白い光を出しているはずの灯台がどこにあるかわからない。木船にドスンとどくろがぶつかる。手元にだけ赤い影が落ちる。

5章

 白光に包まれた空間から投げ出された。海中は真っ暗闇だった。今度は力が抜けない。どくろが海中を覗いている。その目から猩々色の光線が一筋に重なって海の奥底へと続いていて家を照らし出している。海流は下へ下へと向かっている。懸命に泳いで、家を目指す。

 家に着いた。海流は私を中心に渦を巻いている。私に足の先から吸い込まれていく。着ぐるみを着るようにして。体の芯が満たされていく。そこに私は吸着される。着ぐるみがそれを着るべき人間に着られるときの感覚はきっとこんなだろう。

 玄関で靴を脱ぎながら喉に手を当ててごくりごくりと繰り返しつばを飲んでみる。それで喉の動きは分かるけれど、さっきとは決定的に違う。さっきはもっと、別の誰かの喉を触っているみたいだった。

 いつも通り廊下を歩きながら大きめの声で言う。

「ただいまー」

父と母の声は壁を一枚通してくる。

「おかえりー」

壁の向こうには居間がある。ざわめくような笑い声。

 テレビを見ているのだろう。そうならば二人はお酒を飲んでいる。夕飯もとっくに食べ終えている。いつものように。

 毎日その二人の間で麦茶を飲んだ。テレビの内容に笑ったり文句を言ったりした。

 居間の扉を勢いよく開けて、

「ただいま!」

と改めて言おう。学級委員が教室に入ってきて「ちゅーもーく!」とやるように。

両親がこちらへ向いて

「おかえり」

私の席に座らせてくれる。肩がとたんに軽くなった。

「デートどうだった?」

「うーん。なんか変な感じだった」

母と父は顔を見合わせて笑う。

 なんで笑うのだろう。全身がびくりとこわばる。

「楽しかったよ!」

と返事したほうが良かったかもしれない。母の表情をうかがう。

「志保は男の子と二人で遊ぶの初めてだもんね」

母の口角がゆるく持ち上がっている。眉はあまり動かず、目が少しだけ細まっている。

 小さな子供が初めて立ったのを見守るときの目。犬や猫がなにか人間的な行動をするときにそれを見る人たちの目。

 先生にあてられて一か八か出した答えがあっていた。そんなときのように全身の筋肉が弛緩する。

 父の眉山が少しだけ持ち上がる。

「そんな服もってたっけ」

「今日買ったの。中川君が似合うって言うから。これも初めて」

父の眉山がもっと上がって、目も真ん丸になって、笑った。

 曲がり角で通りかかる人の前に突然現れてワッと大きな声を出したあの時のあの人の顔。あの人は私がしたよりもずっと大きな声で色々なことをすごい速さでまくし立てた。

槍。背中とお腹にぴったりと突き付けられて、進んでも戻っても刺さる。私は槍の動きに意識を集中して、それに合わせて動くしかない。

「でも、断れなくて……」

父はまた口角を上げて笑った。

「そうか。あんまり無駄遣いしないようにな」

「はーい」

カバンの中でミニ観葉植物がゴロゴロする。さっきの父の顔がよぎる。これは父と母には見せないようにしよう。

 昔、飼っていたインコが死んで埋められると、私は毎日それを掘り返した。それは日に日に肉が削げ落ちていき、骨だけになり、最後には頭蓋骨だけが地面の穴にゴロゴロと転がっていた。自分の頭がひりひりした。自分が死んで燃やされたあとに残り続ける頭蓋骨を想像した。皮膚一枚挟んで頭蓋骨がある。生まれたときからずっと、この骨をかづいていく運命にある。必ず最後には頭蓋骨一つになる。

 部屋に戻ってカバンからミニ観葉植物を出す。

 中川君との一日が思い出される。アメリカっぽさを演じると、おしゃれに見えるならそれも悪くないかもしれない。女の子としての身の振り方に則ればそれでいいかもしれない。それに、そういう生き方を両親も望んでいる気がする。

 私が学級会で決まった出し物に文句を言っているのを聞いた父は

「いやならもっと最初から意見を出さなくちゃだめだよ。もう決まったんだから黙って従いなさい」

と厳しめの声で言った。

 父と母の口癖は「自分らしく生きなさい」だ。

 アメリカの真似をして、女の子としての役割に徹すれば、私の考えることも行動も、すべて中川君や両親に分かってしまうだろう。それはすごく、脳みそを見分されているみたいでぞわぞわする。

脱衣所に移動して、服に黄色い汚れが付いていることを思い出した。電車の中のおじさんの姿とその服に着いた汚れもよぎる。私の汚れだったか、おじさんの汚れだったか、判然としない。そこを思い出そうとすると砂嵐が起こってわからなくなる。

 頭を洗うときに目をつむる。つむっていると心臓がどきどきする。目をつむっている自分の背中が目に浮かぶ。誰かに見られている気がして、急いでシャワーで泡を流して周りを確認する。だれもいない。その代わりに、私の体はまたふわふわとした感覚に包まれた。中に人がいないのに動かなければならない着ぐるみはきっとこんな気分だろう。

 私がシャワーヘッドを手にもって周りを見回している。その私がどんどん小さくなっていく。また、暗黒の海へと引きずりこまれる。海面から顔を出すと、白光に包まれた海域で、船頭の船にいつの間にか乗っていた。