1章

中川君は時間の十分前なのにすでに来ていた。

「ごめん! わたしも早めに来ようと思ったんだけど、待たせちゃった?」

「いや、ぜんぜん。こういうのって、男が早く来て女の子を待つものだしさ!」

中川君がはにかんだ。

私が小学生のころ、ある日母はため息をついてきつく言った。

「女とか、男とか、関係ないから。相手を待たせたら謝らなくちゃだめよ」

テレビの中では『女の人が待ち合わせに遅刻! こんなとき男性はどうする?』という議題でタレントたちが話合っていた。

中川君に

「でも、待たせちゃったから、ごめんね」

と返した。中川君はニコニコして

「まあ、いいよ。それより行こうか」

と私に促した。

それから二人並んで映画を観てカフェで感想を言い合ったり、洋服を選んでいちいち相手に似合うか確認したりする自分たちの姿を私は想像した。寒気がした。

そして悪いことに中川君に連れられて見えてきた建物は映画館だった。

「加藤さん、これ見たいって言ってたよね」

中川君は一枚のポスターを指し示した。

数日前のお昼休みに私は教室で友達とお弁当を食べながら映画のことを話していた。その時の私たちの声は普通より大きかったかもしれない。それに近くには中川君とその友達もいたのかもしれない。

中川君が私の顔を覗き込んでいる。

「でも、それはひとりで観ようと……」

私はうつむき加減にそう答えた。中川君の目が一瞬泳いだ。でもすぐにいつものさわやかな表情に戻った。

「ごめんね! そういうことだったんだ。じゃあ映画は止めて、ちょっと早いけどご飯食べようか」

「うん。私こそごめん。せっかく計画してくれたのに……」

「ううん。こういうときに女の子が喜ぶような計画を立てられないなんて、男として情けないよ」

中川君は肩をすくめて私に軽く頭を下げた。

テレビで女性タレントが男性芸人や男性アイドルが考えてきたデートプランにダメ出しする企画をやっていたことがある。母は

「あー! 嫌な女! そんなに文句を言うなら、自分で考えればいいのに!」

と言ってビールを一気に飲んだ。

私は中川君に申し訳なくなって

「そんなこと、ないと思うけど…… 今度は一緒に計画しようね」

と詫びたが中川君はすかさず

「女の子に計画させるなんて、できないよ。でも今度からは事前に確認する」

「うん。ありがと」

そうしてやってきた喫茶店はウッドデッキがある店で、店内にはサーフボードが飾られていた。案内されてテーブルに座り、中川君が慣れた感じですぐに注文した。それが何かは聞き取れなかったけれど私も同じものを頼んだ。メニューの裏には何枚か海の写真が貼ってあった。夜の海で、砂浜の端にビル群が見切れていた。ビルにはどれも明かりがついていた。それからよく見ると観覧車も映っていた。別の写真は昼間の海で、真っ白い砂浜がとてつもなく広い。水平線まで遮るものは何もなく、砂浜に立てば視野はすべて海と空になるだろう。

砂浜に立たされて、大声で叫ばせられた。砂粒がざわめき、舞い上がり、海の向こうへと飛散した。海面は凝然として動かない。振り返って母に

「アメリカに聞こえたかな」

と尋ねると

「聞こえないよ。遠いもん」

という答えが返ってきた。母はそれから私に近づいてきた。中腰になって私の両肩に手を置いて、

「でもそれくらいちゃんと声を出して、言いたいことを言えるようになったら、志保にももっと友達が出来るし、嫌なことする子もいなくなるよ」

私がじっくり写真を見ていると、中川君が身を乗り出して写真を覗き込んだ。

「いい写真でしょ。ロサンゼルス、アメリカの西海岸だよ。ここの人たちはすごくおしゃれなんだよ」

中川君は口元をほころばせて抑揚をつけて喋った。壁にかかったサーフボードの脇には夜の海で観覧車やビルの光に照らされてポージングする若い男女の写真が飾られている。店員さんはデニムにvネックの無地のTシャツを着ていて、ゴールドのネックレスを着けている。肌は健康的に日焼けしている。運ばれてきた飲み物は冷たくて、柑橘の味がした。でも色はミルクティーで、後味にコンデンサーミルクの甘さがあった。それを中川君はストローの一吸いでグラス半分飲んだ。にんまりと笑って壁のサーフボードや写真をゆったりと眺めた。店内にはBGM代わりにさざ波の音が流れている。中川君からさざ波を聞こえなくしてしまうのが悪くて、黙っておいた。コンデンサーミルクの甘さは口の中にへばりついていた。中川君の視線を追う。

店員さんが給仕の合間に私たちのことをちらっと見て少し微笑んだ。きっと私たち二人を趣味のあう恋人同士と思っているだろう。それか私を彼氏に合わせてあげる優しい女の子とでも考えているに違いない。

せめてコンデンサーミルクをどこかに追いやろうと、小さなコップのお冷を一気に飲み干した。口の中がさっぱりした。中川君はまたあの飲み物を飲んだ。テーブルの上には海の写真が散らばっている。それを窓から差し込む日光が照らしている。写真の中の太陽が逆にこちらを照らしているように見える。中川君の顔は光に照らさているけれど、それは日本の太陽というよりアメリカの太陽に照らされていると表現したほうが適当そうだった。

「そろそろ行く?」

と中川くんが言ったので、私は残りの例の飲み物を一気に飲み干した。オレンジのような優しい甘酸っぱさの奥からコンデンサーミルクの波が押し寄せる。そんな味だった。私の口の中はべったりとした甘さに支配された。西海岸の写真が反射する陽光のひとすじが私に当たる。瞬間、エレベーターが急に動いた時のような、ふわっとした感覚があった。

「おいしい?」

と問いかける中川君の口からは甘ったるい匂いが漂う。

「まあ」

と発すると私の口からも中川君のと同じ匂いがした。本当は「私の好みではないかも」と続けたかったけれどそれ以上口を開きたくなくて、

「でしょ!? おいしいよね。最高なんだ。いかにもアメリカって感じでおしゃれだし、最高の店だよね。また一緒に来よう!」

という中川君の言葉にただ頷いた。

海の写真がギラリと光った。光線が私を貫いた。中川君の声やさざ波の音が周りの雑音に紛れていく。私は後頭部をひもで牽引されるように、浮いた。空気が真珠色の陽光に満たされている。私は海中に浮くように、真珠色の光の中に浮遊してしまった。

テーブルを立ち上がった私は中川君の後に付いて歩き会計も中川君の斜め後ろに立ち止まった。会計を済ませた中川君に私が

「ごちそうさま、ありがとう」

と礼を言っている。

「いいんだよお礼なんて。こういうのは男が払うのが当たり前なんだから。女の子はおごられて当たり前なんだ」

と言って胸を張る中川君の腕に私の手がかかる。そしてそのまま店を出ていく。

遠ざかって行く私と中川君を追いかけようと、真珠色の光の中を平泳ぎのようにして進もうとした。しかし逆にどんどん上に浮いていく。早くしないと、二人とも店を出てどこかへ行ってしまう。そう思って急いで光をかけばかくほど、浮いていく。真珠色だったはずがだんだん暗くなっていく。私と中川君が店の扉に手をかけたあたりでついに真っ暗になってしまった。

それからしばらく真っ黒な中をもがいてどうにか泳ごうとしていた。息がだんだん苦しくなった。もう限界というところでやっと息ができた。そこは暗い海だった。周りに陸もない。私がどこに行ったか探さなくてはともう一度潜ってみた。しかしそこは真珠色ではなかった。黒い海中に二つの光の玉が揺れていて、それらがこっちに近づいてくる。それが水面を突き抜けて浮上すると、周囲の水が隆起した。光の玉の正体は大仏ほどもあるどくろの目だった。どくろに見入っていると、頭に何かがぶつかった。それは小舟だった。安心してそこによじ登った。どくろがずっとこちらを見ている。

中川君におすすめされる服を体に当ててみて、

「かわいー! この服好き」

と言う私はさっきから体の中身がすっぽり抜けたような感じだった。中川君が勧める服はどれも、例のいかにもアメリカっぽい服ばかりだった。

『服があなたを作ります。着たい服を着て、なりたい自分に』というのがそのデパートの今夏のキャッチコピーだった。

「中川君はどうしてそんなにアメリカンな服が好きなの?」

つい聞くと、中川君は照れ臭そうに笑って

「イヤー、俺、ほんとはダサいんだよね。でもアメリカの西海岸の写真に載ってる人と同じ服着ればさ、最低限見れる感じになると思って。それで着てみたら、やっぱりいいなって。だからアメリカの西海岸を参考にすれば、間違いないなって。いろんなところで参考にしてる」

「なにそれ。でもちょっとわかるかも」

私は笑った。

クラスで一番派手で、実はピアスなんかが開いている女子の口ぐせが「なにそれ」だった。

中川君は今日私と話した中で一番うれしそうに笑った。

小舟でどくろとにらめっこをしていると、どくろの向こうから丸くて小さい、それでいてとても明るい光が見えた。灯台に違いなかった。向こうに行けば誰かがいるかもしれない。オールを探そうと小舟の中を見渡すと、いつの間にか船頭らしき人が舳先に立っていた。

船がゆっくりと光に向かって動きだした。二〇メートほど進んでから振り返ると、どくろもゆっくりとこちらに動いてきていた。

船頭はオールを動かしながら

1章」への12件のフィードバック

  1. 海がこれだけ暗いのだ。あんな明るい場所へ行けば目が眩むばかりではないか。おぉそうだ、海の果てを目指そう。俺はこの暗闇の果てを見てみたい。

  2. 言葉のように暗い奴だなぁ〜! いいじゃないか、目が眩んだってぇ〜! いいことがあれば、周りは見えなくなっちゃうものさぁ〜!

  3. 海の向こうってことは、ボクを見てるってことだろう〜!? だったらやっぱり、こっちにおいでよぉ〜!

suigetsu1104 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です